全部取り消すから金をくれ!

Steve Yegge / 青木靖 訳
2006年12月17日 日曜

このエントリを書いた(すぐ)後に書いたメモ——あなたの過度な期待を取り除いておこう。今日のポストはゴミだ! これはある部分では「やあ、私はまだ生きてるよ!」というピングであり、またある部分では私が最近始めたトピックを締めくくろうとする試みで、そうやって新しいトピックを始められるようにするのだ。どちらもあまりうまくいっていない が。この2ヶ月ばかり私は尋常でなく忙しかったのだけど、年が終わる前にもう一度だけ書いておきたかった。そういうわけであまり時間がない。カークランドではひどい嵐の後の3日間の停電から復旧したばかりだ。私は仕事に戻る前にこれらの考えをごちゃごちゃなまんま投げ込んでおくことにする。だから 別段新しい内容はないよ。

コメントの最初のいくつかを読んで、次に書くのはEmacsハッキングのことにしようと決めた。最近自分でいろいろとやっているからだ。Emacsについて話すのは楽しいし、きれいに色のついたコードがたくさん書ける。だから年の最初の投稿のあとにはEmacsものがいくつか続くことになるだろう。


どうも私はゴジラに食われたという噂らしい。きっと誰かのいたずらだと私の直感が教えている。エヘン。それから私がアジャイルマフィアに誘拐されたという噂もある。連中が立ったままの朝のミーティングのかわりに私に 何かできるとでも言うように。それからGoogleがいかにクールか私がバラしてしまったことで彼らが怒り、ドーナツでいっぱいの部屋に閉じ込めて全部食べさせようとしているという噂もある。

最後のやつはほとんど真実だ。閉じ込めるという部分を別にすれば。彼らはドーナツだけで十分なことを知っている。

何にしても、ゴジラが本当に私を食ってしまう前に何か書いておいた方がいいだろう。Googleの食事は私をゴジラ様でも気付くくらいに変えてしまいそうだ。

今日はどんなことを書くことになるのかよくわからない。しかしまず始めに私のブログの記念日を祝うというのはどうだろう?

 

ブログ記念日

(何日か引くか加えるかすると)ちょうど一年前のことだが、友達であり同僚でもあるGooglerのショーン・オコーナーが、私たちの良くやっているテーブルサッカーをまたやろうと誘いに来て、そしてパスを出しながら「君のブログ読んだよ」と言った。

「ブログって、どれのこと?」と私は聞いた。Google社内のブログにはしばらく何も書いてなかったが、たぶんそれのことを言っているのだと思った。

「あのEmacsのやつさ」

それは妙だ。Emacsについては、Amazonにいた時以来何も書いてない。さらに奇妙だったのは、その週に私のブログエントリについて言及したのは、彼が3人目だったということだ。そんなことはGoogleに入って6ヶ月の間に一度もなかったのに。しかもみんなそれぞれAmazonのブログの別なエントリを挙げていた。

少し調べて、Paul Grahamが支援するスタートアップでRedditという しゃれた新しいユーザ投稿によるニュースサイトがあって、私の古いAmazon社内ブログのエントリが、その週にたくさん取り上げられていたのだとわかった。これは 変な話で、私がそれらのエントリをネットでアクセスできるようにしたのはまる6ヶ月も前のことであり、その後すっかり忘れていたからだ。なんで今になって急に出てきたんだろう?

あまりいい呼び名がないので、これをエッセイのシロップ現象と呼ぶことにしよう。正しい名前を知っているなら教えてほしい。これに関してはAmazonにいたときにYou Should Write Blogsという文章に書いた。これは親友のジェイコブ・ガブリエルソンが書いたエッセイについての話だ(そのエッセイはいまだAmazonのプロプライエタリな情報になっている。もったいない話だ。今なら公開してもAmazonが損することもないだろう。) 私はすごく残念に思っていたのだが、そのエッセイは社内で誰にも読まれてなかった。しかし6ヶ月か8ヶ月くらいたつと、その基本的なアイデアが不思議とAmazonで意志決定する人々全員に広まっていた。

エッセイのシロップとは、本来ならもっと早く広まるべきミームの遅延のことを指す。それはアイデアが比較的知られていない著者のエッセイという形にエンコードされているため、ほとんどの人は他の人がみんな読むようになるまで読もうとしないのだ。他のいろいろなことと同様に、成長率は実質的に指数的で、あなたが耳にするときには、それが一夜にして現れたよう見える。しかし初期の読者数は日に何人というよりは、何日に(あるいは何週間に)1人という単位だ。あなたが耳にするようになるまでには結構な時間が経っているのだ。

自分の経験上の2つのデータポイント——ジェイコブのエッセイと私のAmazonのブログ——に基づいて、私はこの遅延がだいたい6ヶ月から8ヶ月だと推測している。しかしこれはたぶんコンテキスト と内容の関数なのだと思う。ハーディがラマヌジャンに気付くまでに、あるいはアインシュタインがボーズに注意を払うようになるまでにどれくらいかかっただろう? (もちろん私やジェイコブが彼らと同じくらいオリジナルで重要なものを書いたと言っているわけではなく、ただあなたが実際聞いたことがあるだろうエッセイのシロップの例を挙げたまでだ。)

決定的な証拠があるわけではないが、エッセイのシロップはアイデアの生き残りと密接に関係していると思う。これは消化期間なのだ。そしてアイデアを包むエッセイを取り去ってしまうと、胚は生き残れない。みんな私の書くものが長ったらしいと文句を言うが、短いものは楽し くとも本当に長く続く効果は持たないものだ。

この「長いほどいい」現象に対しても適当なマーケティング向けの名前があればいいのにと思う。これの意味は、何かについて詳しく書くのに時間を使うほど、それは(遅いとしても)大きなインパクトを持つようになるということだ。グラッドウェルの「ティッピングポイント」を見るといい。あるいはスロウィッキーの「みんなの意見は案外正しい」を。彼らの主題はどちらもシンプルなエッセイか論文で簡潔に表現できる。しかしそうした場合でも同じように世界的なインパクトを持っただろうか。私はそうは思わない。

ブログやエッセイでは、自分のアイデアについてちょっと研究してみるのが有用だ。少し注意深く考えるというだけでも、それが胚を育て、アイデアはニワトリと卵の受容期間を生き 抜いてメインストリームへと踊り出て、そうしてみんながあなたのことをいかに嫌いかとRedditで愚痴ることになる。ああ、あまい、あまい成功。

しかし研究にあまりに長く時間をかけるのはアイデアを実質的に殺すことになる。自分のアイデアをもっとフォーマルな論文に仕立てたいという欲求のために行き詰ったことが私は何度もある。変化を引き起こすために私が本当に必要とするものは、アイデアをさらけ出すこと なのだ。読者というのはみんな頭が良くて、基本的なアイデアだけ渡してやれば、すぐに残りの詳細は自分で見つけ出してしまう(そして抜けや誤りも)。だから私のスタイルをだらしないとか、長ったらしいとか、いい加減な疑似ジャーナリズムだとか何とでも呼べばいいが、私がこういう書き方をしているのは、それで労力と効果の最適な比が得られると思うからだ。あなたはあなたで好きなように考えればいい!

そういうわけで、6ヶ月の意味深長な沈黙の後、私のAmazonのブログは去年の12月にほとばしり出て、突然、激しい鼻を突く風のように人々の髪を後ろになびかせ、ただの蝋燭をたいまつのように燃え立たせた。そしてそれ以来私は時折新しい噴出を繰り返している。

問題は、ひとたびそれなりのものを1つか2つ書くと、書くものがいちいち注意を引くようになるということだ。シロップが煮詰まる時間もなく、何か間抜けなことを言おうものなら、たちどころに広まってしまう。そのため、何か書くことが少し怖くなる。論文というのが書くのに時間がかかる というのもうなずける。自分の弱点を何重にも覆い隠し、はっきりしたことは何も言わずに凝った形式を使い、そうやって間違いが見つかって永久に決まり悪い思いをする可能性を最小化しようとするのだ。

ラマヌジャンは多くの定理で誤りを犯したが、それが彼の天才をわずかでも傷つけることはなかった。しかし多くの人は、自分のアイデアを他の人に伝えようとする冒険の過程で時折間違いを犯すよりも、何か自明な正しいことを言ったり、あるいは単に誰にも聞かれないことの方を好むようだ。

エッセイのシロップについてちょっと長く書きすぎたようだ。ここでの教訓をまとめておこう。(1) 自分の考えていることを口にし、正しいか間違っているかについてはあまり気にしすぎないこと。そうしないとアイデアの流れを止めてしまう。 (2) 十分なエッセイのシロップがゆっくりと橋の下を流れるようになるまでは、誰かがあなたの文章を読むと期待しないこと。 (3) 話を全部してしまうのに少し時間を使うこと。そうすればみんな目的地のことは気にせずに、旅自体を楽しんでくれるだろう。

 

アジャイルについての後書き

私はある種のフィナーレを書いてアジャイル三部作みたいなものにしようとした。しかし私の思考は固まらず、どんな固まりの思考にもならなかった。だからきれいにまとめようとなどしないで、ただアイデアを丸裸のまま投げ込んでしまうことにした。それは私の頭のなかでひらひらしていて、ゼルダのゲームで癒してくれる妖精のようだったが、私が今どういう地点にいるのか本当に知る必要があるというなら、私はそれを空中で捕まえて小さな壜に入れ、あなたが眺められるようにしてあげよう。

(ときにワインが書きものを追い越してしまうことがある。ほんとに。)

最初に、私はこのプロットに沿って、ヨシフ・スターリンと毛沢東に宛てたカール・マルクスのメモを書こうと思った。

件名: コミュニストの押しつけについて
To: ヨシフ・スターリン, 毛沢東
From: カール・マルクス

親愛なるスターリン書記長と毛沢東主席へ

私は最近ネットサーフィンしているときに、気になる噂を耳にした。ある体制
において、コミュニストプロセスのプロレタリアへの押しつけが行われている
というのだ。諸君にはっきり言っておくが、そのような振る舞いは私のコミュ
ニストマニフェスト(共産主義宣言)の基本原理とは100%食い違っている。

確かにコミュニズムの導入時には、ブルジョワ階級を打倒するため、幾分直感
に反する虐殺が必要となることもある。しかしながら、革命の後には、自己決
定こそ基準とすべきだ。市民は定期的に立ち止まり、いかにすればより生産的
になれるか熟考し、それに応じて行動を変えていくべきだ。強制された個人崇
拝や非アジャ、もとい、その非コミュニストのアイデアへの暴力的な弾圧や、
労働者階級の搾取はすべて、私がマニフェストに示したアイデアを歪めるもの
だ。

チッ、チッ、いかんよ。教養ある者が望めるのは、忍耐強い教育を続けること
によって、いつか人々がコミュニズムの真の姿を理解する助けとなるというこ
とだ。私は反対者を殺すことよりも説明することを好む。

カール・マルクス

これはキュートじゃない? ああ、その通り。ばかげている。それに私は、リファクタリングの本(ご存じのように、IntelliJのユーザが実際には誰も読まない本だ)のおかけで、ファウラーには好感を持っていて、彼がたとえほんとにバカなことを言ったとしても、公然と彼を笑いものにする気にはなれないのだ。

次に、前の2つのエントリに対する10兆のコメントの1つ1つにレスポンスを返すというのを考えていた。たとえば:

コメント: 面白い話だが、君が分ってないってだけのことだ! アジャイルは私にはうまくいっている。だからそれは本物であるはずだ。

私: 全部取り消す! だから金をくれ! ああ、何てことしたんだろう? 風水のコンサルタントになってやりおおせるには遅すぎるかしら? 騙されやすい人たちを食いものにすればどれくらい稼げるものか見当も付かない。ほんとの話。私がただわかってさえいたなら・・・ああ、痛い・・・私が自分のレパートリーから、ああも効果的にアジャイルコンサルティングへの道を排除してしまったとなると、 タマの安全をはかるためにどこまで逃げなきゃいけないんだろう?

コメント: 素晴しいポストだ! 最高だよ!! 暇があったら、http://www.i-beat-captcha.comに立ち寄って、私のスパムを見てほしい。自分で作ったんだ!!

私: ウー・・・スパーーーーーム・・・

しかし私はすべてのコメントにいちいち反応するには怠惰すぎる。だから、あなたの可処分所得はすべて近くにいるアジャイルコンサルタントに送るといい。彼らの誰でもうまくやることだろう。彼らは皆同じことを言うのだ。「あなたはまだ分って いないのです。チャリーン!」

次に、私は儀式がいかに嫌いかという話をしようと思っていた。まあ関係ない話に聞こえるのはわかる。しかしアジャイルというのは、教会のようなものの常として、儀式や形式が大きな役割を担っている。儀式というのは実際の仕事を成し遂げる上で邪魔になるものだと思うだろうが、彼らは違ったように言う。そうして年取った禿げた男を連れてきて、新しくオープンするモールの前で大きなリボンをカットさせ・・・おっと違った。これは別な儀式だ。彼らはアジャイルコンサルタントを連れてきて、最も重要な寄付を募る儀式を含む、最新の直立の儀式の数々を行わせる。

私はあまり儀式が好きではない。このことはずっと以前から、最初の聖餐式に行く小さな子供の時からわかっていた。そして儀式だらけの米海軍にいたときに嫌悪が強くなった。私は正装をするのが嫌だ。結婚 式と葬式という特に大きな2つの儀式さえ気にかけていない。披露宴や通夜なら理解できるが、それは繰り返されることが少なく、人の本当の感情が表れるからだ。しかし儀式では、みんな着飾って、手をつなぎ、大げさなことを口にすること が期待される。私向けではない。

そういうのがあなたには合うのかもしれない。そうであるなら、私たちは違うのだ。私はそれはそれで尊重する。多くの人が儀式を好んでいる。儀式が人と動物を区別するものだと考えているのだ。もちろんこれは正しくない。私はディスカバリーチャンネルでカバやワニが悲痛で驚くべき死の儀式をするのを見たことがある。しかし儀式は人々に人生が重要で意味があるように感じさせる。そしてあの大きな緑色のモールのリボンによって、薄っぺらで月並みな歴史的出来事にどうにか深みを 付け加えるのだ。

私向けではない。そして私には、アジャイルと、立ったままのミーティングと、ステータスリポートと、まやかしのプロジェクト管理の小物と、儀式に対する切実な要求との間には、はっきりした関連があると思える。 私に言わせれば儀式は必然的にまやかしなのだ。本当の儀式というのは繰り返されることのない準備なしの集まりであり、参加者はつかの間だけ驚くべき出来事に畏敬 の念を持って立ち会う(ほとんど常に予期することなく)。そのようなことは一度だけ起こる。モールのグランドオープニングは遠慮させてもらいたい。

最後に、このアジャイルシリーズの3回目では、関心を持つすべての人々に対し、アジャイルは単に使い古されたアイデアを繰り返しているだけであり、それ以上のものではないことを示そうと思っていた。アジャイルの人たちは他の人がすでに為したことを予測可能なしかたで再現することにもっぱら関心を持っている。単なる我も我もの教会だ。

この最後の論点は、アジャイルについて少し立ち止まって考えてみればごく明らかなことだと思う。チームが集まって次のモダンアートの傑作を作るには何日かかるか予測しようとするアジャイルモダンアートなんてありうるだろうか? 次のダビンチコードを書くためにオペレーションリサーチがどう使えるか議論する自助的なミーティングにアジャイルノベリストたちが集まったりするだろうか? (あなたも彼らが抱く嫉妬を感じ取れるかもしれない。どうしてあんなつまらない小説がそんなにヒットするんだろう? 何十万という潜在的なアジャイル作家たちが、ダビンチコードが公に出て以来そう自分に問うてきた。あなたは私が嫉妬していることに賭けていい。少なくとも私は認める!)

これらの修辞疑問すべてに対する答えは、もちろん、「8つ?」だ。(あなたがシンプソンズのファンならね。「私は修辞疑問の意味がわかってるのか?」——ホーマー、あいつは傑作だよ。)†

† ザ・シンプソンズに次のようなシーンがある——
シンプソンママ: [ため息]男は男と呼ばれるまでに、どれほど多くの道を行かねばならないのか?
ホーマー: 7つ。
リサ: お父さん違う、それ修辞疑問よ。
ホーマー: そうか。じゃあ、8つだ。
リサ: お父さん、「修辞疑問」の意味わかってる?
ホーマー: さて、私は「修辞疑問」の意味がわかってるのか?

偉大な芸術作品の納期やクオリティを予測することはできない。トーマス・キンケードを偉大な芸術家と考えるのでもない限り。次のマーク・トウェーンや次のダグラス・ホフスタッターを予測することはできず、立ったままミーティングしたところでそれが生み出せるわけでもない。インデックスカードでどうにかできるものでないのは明らかだ。しかし予測可能性はアジャイルの連中がよって立つものの半分だ。おお、予測可能性よ。霊媒や予言者や馬券屋に何を期待しようというんだ。現在、昨日、明日、永遠。私たちは皆、予測できることを切望している。しかしそのクズに引っかかったなら、空から落ちる星のように、地に落ちることになる。

このペースでいくと、あとワイン一杯で私は駄目になると予測する。だからもうまとめに入った方がいいだろう。

振り返って見れば、アジャイルは他の人の為したことを予測と管理が可能なしかたで為すことなのだというのは明らかに思える。昔ながらの退屈なWebサイトに、昔ながらの在庫管理システムに、昔ながらのデータベース駆動のなんとか。当のコンサルタントが前に何百回と見ているものだ。

それはしごく結構だ。実際素晴しいと言っていい。他の誰かがするのである限り。あなたがやるの? 結構。がんばって。しかし私は自分の小さな信念を表明して今回の話を締めくくろうと思う。これについては同意してもらわなくて結構だ。私がそれで少しでも考えを変えることはない。 じゃあ始めようか?

 

銀のキーボード

人月の神話で、フレッド・ブルックス Jrは私たちのソフトウェアプロジェクトの管理に対する態度は狼男を退治するために銀の弾丸を求めていた人たちの伝承に由来していると論 じている。あいにくと、これまでのところ銀の弾丸は見つかっていない。魔法のように一夜にして10倍の生産性を得させてくれるものはないのだ。

だから狼男に出会ったときには、あなたの生活を脅かすようなプロジェクトやタスクを背負い込んだときには、何ができるのだろう? 銀の弾丸はなく、あるのは自分の両腕だけだ。あなたは銀のキーボードを取り出し、自分の両腕で叩き始める。そう、袖をまくって、仕事をするのだ。

あなたのボスが間抜けなら、ボスをクビにすることだ。これは自明なことだと望みたい。私が最初にGoogleのソフトウェア開発について書いたとき、多くの人が「素晴しい」と書いた。しかし何人かは個人的にメールしてきて「が働いてるのはどこのGoogleなんだ? そういうのも、私のところとは全然違っているからだ!」と書いていた。それに対する答えは、Googleは自分で作るものだということだ。あなたのボスが吸血鬼なら、そいつをクビにすることだ! Googleは自らの開発組織をくまなく探って取り締まれるわけではない(そうすべきでもない)。あなたは自分のグループが間違いなくGoogle的であるようにする必要がある。それが何を意味するのかはわかっているはずだ。もし現在そうなっていないのなら、修正することだ!

そしてあなたがGoogleにいるのでない場合、多くの優れたエンジニアがそうであるわけだが、それでもGoogle的というのがどういうことなのか、あなたはわかっているだろう! それは「最低」の反対ということだ。あなたの組織やチームや小さなキュービクルの袋小路が非Google的だというなら、修正することだ! Google性はGoogleに限定されることではない。現在たまたまGoogleで広く見られるというにすぎない。

しかしどうやって? そんな力が自分にあるだろうか? あなたは私と同じような、ただの下っ端だ。そうじゃない? どうやってポスをクビにできるんだ? あるいはあなたのボスが最高だけどそれが認められていないというとき、どうすれば自分のボスを昇進させることができるか?

答えは、あなたは自信を持つ必要があるということだ。アジャイルコンサルタントは人の弱みに目を光らせている。彼らがあなたの中に弱みを見つけたなら、飛びかかってくることだろう! あなたは彼らのアジャイル的要求に耐えられるだけ強くはないかもしれない。私は15年か20年前には、そういう強さを持っていなかった。

しかし私たちに使える逃げ道がある。あなたがスーパースターなら、あなたのマネジメント階層はあなたを必要とするということだ。彼らはあなたから最大限のものを引き出そうとする。そして何かの理由でそうなっていなかったり、あるいは彼らがあなたにどれほど価値があるか理解していないなら、彼らには見込みがない。現代的な用語で言うなら「ハマっている」ということだ。

では、どうすればスーパースターになれるのか? 学ぶのをやめないことだ。そういう態度は役立たずでばかげており、キャリアを通してずっと新しいことを学び続けるなんてできないと人が言 うのを聞いたことがある。

しかし私は違ったように考えている。あなたの書くプログラムはいつだってかつて書いた中で一番難しいものであるべきだ。そしてこれは私のブログでテーマとしていることだ。自分を改善し続けること。長期的に重要になるような雇用者の多くは、あなたがどれ ほど優れた者となったかを分かり、彼らは必要とあらばビジネスプラン自体さえ変えて、あなたから最大限のものを引きだそうとする。信じられない? 私はこの業界での自分の控え目な20年の経験の中でものごとがそのように展開するのを見てきており、それが私の見方なのだ。

これは私の小さな信念だ。あなたはそれを認めるなり無視するなり好きにすればいい。ただ私は自分の考えをはっきり言っておきたいだけだ。恐ろしいくらいに頭が良く、名付けうるいかなる技術的側面においても私より遥かに優れた人々に 囲まれている会社に入った今でも、彼らが道に迷ったときには彼らに教えることができ、そうして彼らは耳を傾けてくれる。(幸い、彼らはめったに道に迷わない。そして私は依然彼らから膨大なことを日々学んでいる。Googleで働くことの利益は、今の時点でも依然、大方私の側にある。)

 

ではまとめだ!

たぶん次のいくつかの投稿は、アジャイルの踏み車より上のエンジニアになるための方法についてのものになると思う。つまり自分の考えを言明するとか、自分のスタートアップを起こすとか、何であれ相応しいと思うことができる人間 になるということだ。

私はある理由があってしばらくブログを書かないでいた。理由は実際いくつかある。1つには、私はまだGoogleで稼ぎ分の仕事をする必要を感じている。そして私は自分で作った新しいフレームワークに取りつかれた悪魔のように仕事してきた。それはこの一年の給料分以上のもの になるだろうと思っている。もう1つは、私は自分のコンピュータゲームWyvernをオンラインに戻す負い目を負っている。50,000人のプレーヤーたち(このゲームを試してみた250,000人のうちの)に、簡単に背を向けるわけにはいかない。加えて、私はこれを読んでいるWyvernユーザたちのために、すごくクールなものを用意している。このGoogleでのプロジェクトが一段落したら、それに取りかかるつもりだ。

それから私は自分のアドバイスには自分でも従う。どん欲に読み、可能な限り時間を自分の改善のために使う。そうすることでこれまで報われてきたのだから、やめるべき理由はない。

しかしこの4時間ばかりは私がこの四半期でブログのために確保できた時間のすべてだ。私がゴジラに食われたんじゃないかという懸念(あるいは期待)をいくらかでも和らげることができたと望みたい。来年またお目にかかり、心を新たに次のトピックをブログに書きたい。

それでは楽しいホリデーシーズンを!

P.S. Googleのカークランドオフィスには、今では2台のサッカーゲーム台がある。1年のうちにいかに多くのことを経験することになるかは驚くばかりだ・・・

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