Egomania Itself

Steve Yegge / 青木靖 訳
2006年10月7日 土曜

  Q. 錠剤に有効性がなかったとしても、GNC†がその錠剤を棚に並べて人々に売るのは全然問題がないと供述しましたか?
A. 私たちは、彼らが何らかの認識された利点に基づいて判断を下していると仮定しています。
— GNC会長 ジェリー・D・ホーンによる宣誓証言

† GNC: General Nutrition Center アメリカの健康食品小売りチェーン

フーッ、まったくこの2週間はすごいことになっていた。Joelに言及され、Brayに言及され、Slashdotで言及され、Agile Mafia Monthlyに取り上げられ、そうして激した読者のメールにすっかり埋もれていた。

一番の目玉はバンクーバーのアジャイルカンファレンスにスピーカーとして招待されたということだ。彼らはこう言ったのだ(そしてこれは言葉通りの引用だ)「私たちはあなたのタマを切り取ったりしないとお約束します」。彼らは安全のため、セキュリティガードを付けるとまで言ってくれた。ひぇっ!

アジャイル弁護士たちが私のタイラー・ダーデンのくだりを分析し、抜け道を探し出して私を早くそういう羽目に陥らせようとしているに違いない。はっ! そう簡単には引っかからないよ。古くから言うように「バカはすぐにタマをなくす」†のだ。多かれ少なかれ。だから私は丁重にお断りし、氏名変更の申請をして、整形手術の順番待ちリストに登録し、オクラホマに引っ越した。アレがかかっているときには用心しすぎるということはない。

† "A fool and his balls are soon parted.": 正しくは"A fool and his money are soon parted. "

目玉の2番目はきっとこのメールだろう。以下に全文引用しよう:

From: アジャイリスト・カーニバル

あなたがこのメールを受け取られたなら、あなたは10月5日のアジャイリスト
・カーニバルで引用されたということです。アジャイルソフトウェア開発を、
そのあるべきところへと導くためのあなたの洞察と解説に感謝します。
お望みなら、あなたのブログからカーニバルのページにリンクして、言葉を広
める一助となることをご検討ください。いつものように、輪番の司会者として、
あるいは1回だけのゲスト司会者としてカーニバルを支援したいという場合は、
私にお気軽にご連絡ください: <メールアドレス>

どうもありがとう!
      J.

ヘッヘッヘッ。どうも書いてあることがよく分らなかった人がいるようだ。

何にしても、この間のブログエントリすごーくたくさん読まれ、斜め読みされ、リンクされ、異議を唱えられ、共感され、誤解され、称賛され、こき下ろされ、あらゆる扱いを受けた。私はどうやら慣例を破って、本腰を入れてフォローアップを書いた方が良さそうだ。

ついでながら、アジャイル文法教師たちが小学校で私に押しつけたバカみたいな文法ルールを全部破るのがどんなに楽しいかは言葉にもできない。彼らは今日まで生き延びている几帳面で短気な性格タイプを代表していて、世界中のスクラムマスターを認定したり飼い猫にペンキを塗ったりで大忙しだ。[疑問に思っているかもしれないね。猫の話はもう少したらするよ。]

OK。前口上は十分だろう。ショーを始めよう! 本日のエンターテインメントでは、山ほどのつまらないジョークと、洞察を1つか2つ提供することをお約束しよう。それからお行儀良く聞いていたら本物のマジックを最後にお見せしよう。じゃあ、がんばって!

 

いい種類はひとつではない

面白い部分に入る前に、いろんな人がひっきりなしに言ってくる1つの大きな誤解についてはっきりさせようと思う。

私がGoogleの開発プラクティスを反例として使ったことで、Googleのアプローチが(a)アジャイル、(b)ウォーターフォール、(c)ナイアルラトホテップ†に対する唯一の代替案であると、そう私が主張しているのだと思った人たちがいるようだ。

†H・P・ラヴクラフトの「クトゥルー神話」に登場するキャラクター

そうじゃない! 私がGoogleのプロセスを出したのは、ただ他にも方法はあり、それが機能していることを示すためだった。私がこの証拠を示したのは、アジャイルの主張である、「このアジャイルマニフェストを47秒以内に5人の友達に転送しなければ、即死して高層ビルから肥溜めに放り込まれることになる」(若干言葉を変えてある)に立ち向かうためだった。

まじめな話、アジャイルを超えた姿について議論するとき、別にGoogleに目を向ける必要はない。ただまわりを見渡せば、アジャイルでないチームの「サクセスストーリー」をたくさん見つけられるだろう。「サクセスストーリー」を探すのは、もちろんバカだ。それは選択的強化であり、(たとえば)常習的ギャンブル癖へと至る道だ。本当の証拠が欲しいなら、実験によって科学的な根拠を構成すべきだ。あいにくとこれは、失敗にも目を向けなければならないということだ。あ痛っ! これはマーケティングには具合が悪い。アジャイルの人たちが「サクセスストーリー」を聞いて回っていたら、ポジティブなものだけ見るのは疑似科学であることを丁寧に指摘してあげよう。

自分で見てまわって調査してみれば、2つの次元と4つのカテゴリがあることが分かる。「アジャイル 対 非アジャイル」と「失敗 対 成功」だ。それぞれのカテゴリに当てはまるプロジェクトを見つけられるはずだ。「サクセスストーリー」にだけ目を向けないこと。全体像を見て、自分で観察したことと他の会社にいる友達が観察したことを関連付けてみよう。正直に評価したなら、アジャイルはそんなに広まってはおらず、彼らがあなたに信じさせようとしているほどには成功する傾向が強くないことが分かるだろう。それとはほど遠い。

具体例を1つ挙げると、ある人がコメントで、Blizzardがスケジュールにしたがって出荷していないことを指摘していた。彼らは「アプリケーションができたときに」出荷する。World of Warcraftって聞いたことのない人、手を挙げて。どう? 誰もいないの? WoWは過密でロックインされた(みんな自分の今のMMORPGの中に居続けようとする)ゲームの世界に押し入ってきて、SonyやMicrosoftのような巨大な競合たちが作っているクズを踏みつぶした。一夜にして。ドカーン。そしてBlizzardというのはGoogleとこれ以上ないくらいに違ったビジネスをしている。パッケージゲームソフトというのは他のソフトとは特に違っているものであり、歴史的に革新的で、賞を総なめにする、大勝のベストセラーが生まれる場所なのだ。

しかしアジャイルでないチームや会社を個別なケースとして数え上げていくよりも、一般的な法則を示す方がいいだろう。「世界の偉大なソフトウェア開発者のほとんどは、アジャイルを使っていない」。彼らは単に熱心に仕事し、軽量であり続け、偉大なものを作り出す。開発者の多くはアジャイルとは何かのアイデアさえ持っていない。そのことを考えることだ!

アジャイルはニッチであり、市場の少数派だ。ほとんど特異と言っていい。たまたま多量のマーケティングを手にしただけのことだ。これまでまったく未開拓だった、技術分野のいんちき薬のマーケットを開拓したのだ。コンサルタントはだまされやすいクライアントに、プロセスが「ちゃんとしていない」と言っては契約を拡張し、濡れ手に粟の儲けをしている。

アジャイルは別にたいしたものではないが、アジャイル陣営はほんとに声が大きいのだ。うるさいくらいに。開発者の普段の仕事に差し障るくらいに十分うるさい。それが私の声を上げなければならなかった理由だ。アジャイルはほとんど2ヶ月の間私をブロガーの壁に突き当たらせていた謎のトピックだ。しかしある時点で、私は耐えられなくなった。そこかしこで批判されてはいるが、しかしそのどれもアジャイルの連中ほどに声が大きくはない。

だから私は可能な限り大声で叫んだのだ。スラッシュドットにさえ載るくらいの大声で! それはまさに私の望んだことだった。私が世界中の開発者に伝えたいマーケティングメッセージはただ1つだった。「アジャイルにノーと言ってもいいんだよ」。それだけだ。そんな込み入った話じゃない。しかしアジャイルの教会はあまりに強力になっていて、職場でアジャイルでない人々を批判することはますます許容されるようになっている。そのことについてはすぐに話すつもりだ。

実のところ、私のメッセージを伝えるのは、全体としてそんなに難しいことではなかった。いんちき薬というのは滑稽なものだからだ。簡単にコケにできる。

あなたはおそらく、アジャイルの連中がまったくユーモアを欠いていることに気づいていると思う。この間の私のブログ投稿のあと、アジャイルコミュニティ全体が、画策し、配置に付き、戦略をめぐらし始めた。そしてこれはできのいい方の人たちのことだ。その他の人たちはというと、ただ「私は実際このダイエットで35ポンド痩せた!」と叫んでいて、「実験 対 統計的に無意味な逸話」についての私の話のポイントを理解し損ねていることを示していた。それで彼らを非難するわけにはいかないだろう。処理すべき情報が山ほどあったのだ。まるまる本1冊分の情報が、1章分のブログ記事に押し込められていたのだ。しかし全体として、アジャイル側には自嘲的ユーモアがほとんど見受けられなかった。

コミュニティのユーモアのレベルを見てそれが「国家安全保障」レベルと位置づけられるようなら、それはあなたが絶対関わりたくないと思う相手であることのいい目印になる。

何にせよ、Googleのアプローチが他の分野のテクノロジー企業にも実行可能かどうかという議論は注意をそらすものだ。多くの会社はアジャイル方法論を使ってはいないか、使っていたとしてもごく一部のチーム、おそらくは10%未満が使っているにすぎない。たぶんね。少なくとも私がその会社出身の人をたくさん知っている会社はそうだ。Sun、Microsoft、Yahoo、Amazon、Google、Blizzard、そのほか、クールなソフトを作っている業界のリーダーはみんなそうだ。彼らはほとんどアジャイルなしでやっている。Googleだけというわけではない。みんなそうなのだ。

アジャイルの連中はまったく声が大きく、彼らは何か治安妨害チケットでも持ってるに違いない。彼らは実際に多数派でなくとも、一種の道徳的多数派なのだとあなたに信じ込ませようとしている。

あなたも今ではそのことが分かっていると思う。

 

静的型付けと心強いメタデータの必要

いい/悪いアジャイルの暴言の最後の方で私が静的型付けについて述べた微妙な点に目を留めた人たちもいた。私はそれについてあまり書かなかったが、「だったら何を使 えばいいんだ?」という叫びを目にして、これはあのときに私が考えていたよりも、もっと中心的な問題なのかもしれないと思うようになった。

一見関係なさそうな短い逸話をお話しよう。しかしそれはかみ合うのだ。ちょっと我慢して聞いてほしい。

私の高校時代の英語教師は、学期の最後の日に、その人がだらしないかきれい好きか見ただけで言い当てられると言って、みんなを驚かせた。彼女はまた、(私はこれにまったく同意するのだが、)だらしない人ときれい好きな人とを分けている線は、その確かな指標は、毎朝ベッドメークするかどうかなのだと言った。それから彼女は私たちの1人ひとりに向かって、「だらしない」「きれい好き」と指摘していった。彼女の判定が合っていることをみんなが認めた。(そして私たちのほとんどはだらしない方だった。ベッドメークするのは間抜けだ。)

他の多くのプログラミング言語に対してやっているのと同じように、私は以前、Perlの技術的な弱点を長々とこき下ろしたことがあった。私はいつも驚きを感じ続けているのだが、Perlの連中というのは、唯一決して怒らない人たちだ。彼らはただ「ハハ、そうだね、坊や、お前正しいよ。確かに醜い。いやいや、うん、まあ、ともかく、俺仕事に戻んないと・・・」 これはすごいと思う。私は彼らにすごく敬意を感じるようになった。このことだけでも、Perlでのプログラミングに戻ろうかと思うに十分なほどだ。

まあ、ほとんどは。

Perlの連中は毎年Perl Haiku competitionというのをやっている。これは気の利いたアイデアだ。17音節で役に立つプログラムが書けるというのは、ほんとに驚くべきことだ。

私は一度 Javaで試してみて、ちゃんとしたJava俳句を作った。

ArrayList<int> myListOfInt = new ArrayList<int>();

これを声に出して読むとこうなる。

ArrayList of Int
my list of int, equals new
ArrayList of Int

私だけなのかもしれないが、Javaだとこんな単純な宣言だけで俳句サイズになってしまうのには、すごくがっかりする。

有名なFar Sideの漫画家でありコンピュータサイエンティストであるGary Larson博士は、1987年10月に、Javaスタイルの静的タイプシステムについての決定的な論文を出した。あなた方の十分多くがFar Sideの本を買ってくれれば「フェアユース」になることを期待して、完全なム許諾のもと、彼の論文をここに複製する疑わしい自由を行使する。買ってくれないなら、まあ、Miranda Pinsley†がどうなったか思い出してほしい。

† 「Miranda Pinsleyという女性がこのメールを転送しなかったためにひどい死に方をした」という内容のチェーンメールがある。

これがLarson博士の、型推論のない静的型付けシステムに関する有名な論文だ。

Man has painted large labels on cat, dog, house, tree, door, himself.  'That ought to clear up a few things around here!'
「よし! これでこの辺も少し整理できた!」

これは本当に、かつて出版された中でも最も洞察に富んだコンピュータサイエンスの論文の1つだと思う。Larson博士が当時認識していなかったのは、彼がアジャイル方法論をも予言していたということだ。

私がこの何年かの間にタイプシステムについて学んだことが1つあるとしたら、それはだらしないタイプシステムと、きれい好きのタイプシステムがあって、それは結局個人の好みの問題だということだ。きれい好きな人たち(Java、C#、C++、Pascal)は、だらしない連中(Perl、Python、Ruby、JavaScript)が同じくらいに生産的であることを十分にわかっている。あるいはもっと生産的かもしれない。誰にもはっきりとはわからない。はっきりしているのは、みんな言語の選択にかかわらず仕事をやり遂げているということだ。議論になっているのは生産性のことだと多くの人は思っているが、実際には生産性のことではぜんぜんない。それはベッドメークされてない家で暮らすのに我慢できるかどうかという問題なのだ。

ベッドメークは間抜けがすることだとは言ったかしら? まあ、それは単に私の見方ということだ。私の妻はほとんど毎朝私たちのベッドのベッドメークをする。私にはそれがわずらわしいし、意味がないと思う。どうせ夜にはぐちゃぐちゃにしてしまんだから。しかし彼女はその場所をきれいにしておかないと、すごく居心地悪く感じる。だから私は靴下を拾ったりなんだりしなきゃならなくなる。

いつでもだらしない連中がおり、そしていつでもきれい好きな連中がいる。比喩的に言うと、猫に「猫」と書き、犬に「犬」と書かなきゃ気のすまないプログラマがいて、そうしないと彼らは、私が皿を山ほど流しに突っ込んでおいたり服を床に脱ぎ散らかしていたときの妻のように、ストレスを感じ、居心地悪く感じるのだ。それからメソドロジーを必要とするプログラマというのもいる。今のやつは助けにならないと納得させても、彼らにはそれを捨てることができない。彼らは何か別なものへと切り替える必要があるのだ。

それが証明された銀の弾丸などではなく、単にひとつのスタイルなのだと彼らが理解しているなら、別に問題はないと思う。

残念ながら、私たち1人ひとりの脳に組込まれた若干バグッぽい生存メカニズムを通して、アジャイルはウィルスのように広まっている。ウィルスの流行と戦うには極端な方法をとる必要がある。だから私は本当に大きな 切り札を出すことにして、私の父のチリについて話そう。

 

チリ作り

たくさんの頑固なアジャイル主義者たちが、自分たちにはアジャイルは何年もうまく機能しており、それで成功してきたのだと怒って反論している。彼らは私がアジャイルは「機能しない」と言ったと思っているらしい。アジャイルプロジェクトは90%の場合には失敗すると私が主張していると思った人さえいるのだ!

誤解しないでもらいたい。アジャイルはとても良く機能する(あるいは少なくとも機能しうる)。問題はそれよりもっと微妙なものだ。多くの人はそれを理解しているようだが、しかしアジャイルの人たちの多くはまったくそれに気付いていないのだ。だから私はその微妙なところをはっきりさせて、問題が彼らによりはっきり分るようにしようと思う。

私が十代の頃、父と兄のマイクがホームメイドのチリを作ろうと決めた。私はチリを作っているところを見たことがなかったので、彼らが牛肉や豆や野菜やスパイスや、そのほかの材料を加えていくのを、強い興味を持って眺めていた。父は味見して、もっと材料を付け加え、少し待って、また味見した。父はあるすごくいいレシピを持っているのだ。父が戸棚を開けて、ホーメルのチリソースの缶を2つ取り出して、ふたを開けてぶっ込んだのを見たときに、私がどれくらい困惑したか想像できるだろう。

私はしばらく間を置いてから、なんでチリに缶詰のチリを加えたのか聞いてみた。父も兄もひどい味だったからと答えた。今や有名になった父の発見は、「犬の糞から始めても十分なチリを加えればチリになる」ということだ。

同様に、アジャイルメソドロジーから始めても、十分な努力を注げば、多くの仕事をやり遂げられるのだ。考えてみて。

しかしこれはトートロジーだ。「アジャイルメソドロジー」の部分を何でも好きなものと置き換えたところで、相変わらず正しい。たぶん風水で何年にも渡ってプロジェクトを成功させてきたと信じている人たちを見つけるのも難しくはないだろう。あるいは泉に硬貨を投げ入れることによって。プロジェクトを完成させるために魔法を使っている人たちだってたぶんいるのだろう。そしてそれらのプロジェクトのかなりのものは—おそらく大多数は—最後には成功しているのだ。

十分長い日数雨乞いの踊りを続ければ、いつか効果が出る。間違いなく。

だから私はアジャイルが機能しないとは言わない。機能しますとも! しかしそれは、単なるまじりっけなしの迷信だ。

では、諸君、本日最後のビッグトピックに取りかかることにしよう。さあマジックの準備だ!

 

ブレークダンスする鶏

ああ、そうだ。はじめに鶏の話をしなきゃいけない。私たちは猫をやって、チリをやったから、今度は鶏だ。ほとんど最後の幕の準備ができている。これはたくさんの人を本当に怒らせることになると思うけど、すぐに話してあげる。

1986年、大学の心理学入門の授業で、教授が去年自分の異常心理の授業であった、ちょっとしたことについて話してくれた。その授業では、学生はそれぞれ実験用のネズミを渡され、ネズミが迷路で正しく行動したらご褒美をあげることで、迷路抜けられるようにネズミを訓練しなければならなかった。しかし学生の中に1人ネズミを怖がる女の子がいたため、彼女には鶏を渡して、くちばしで鍵盤をつついてピアノを弾くトレーニングさせることにした。鶏が正しい鍵盤をつつくごとに、彼女はペレット(あるいは何であれ、鶏が食べるもの)を与えた。間違えたらペレットなしだ。彼女が1度に音符を1つずつ教えていけば、最後には曲全体を覚えるようになるだろう。

彼女がたぶん曲の半分くらいまで鶏に覚えさせたある時のことだが、鶏が激しく頭を左右に振って、そのすぐあとに彼女が教えようとしている次の音符を含んだ音符の並びを正しく弾いた。鶏は正しく鍵盤を弾いたので、彼女はペレットをあげないわけにはいかなかった。鶏は彼女が望むことをすればおいしいペレットがもらえるのだとはっきり理解していた。そしてこのペレットによって、鶏は鍵盤と首振り運動の両方でご褒美がもらえると思うようになった。それ以来鶏はピアノを弾きながら絶えず狂ったようなツイスト運動をするようになった。正しく鍵盤を叩いたときには彼女はご褒美を与えなければならず、ツイストは必要じゃないのだと伝えるいい方法がなかった(最初からやり直すのでなければ。しかしそうする時間はなかった)。そして鶏は激しくのたうち回るのが、そのプロジェクトの成功に役立つのだと幸福に信じ続けた。

彼らは後に地元の大学をツアーしてまわったということだ。宣伝文句は「ブレークダンスしながらピアノを弾く鶏」だった。

教授は目を丸くした一年生たちに、この現象は迷信と呼ばれており、これは黒猫だとか、はしごの下をくぐるとか、鏡を割るとか、室内で傘を広げるとか、そういったことに誰かがこだわるというときの迷信とまったく同じ種類のことなのだと話した。科学的実験や純粋な演繹的推論に基づかない信念はみ んな「迷信」に含まれる(多かれ少なかれ)。

まあ、それだとすごく範囲が広くなる。私たちは知っている(あるいは知っていると思っている)ことのほとんどについて、わざわざ検証しようとしたりはしない。それは私たちがみんな迷信的だということなのだろうか?

その通りであることが明らかになる。私たちの脳は強力なパターンマッチマシンだ。私たちは生き残り、世界について学ぶため、自分の経験について何百万という推論を構築できる必要がある。そしてリアルタイムでこの「パターンデータベース」にマッチングをかけるのだ。すべての情報を十分速く処理するために、私たちの心は、同時に起る2つの出来事には相関があると仮定する傾向がある。

今言ったことは、たぶん今回の文章全体の中で最も重要なところなので、もう一度繰り返しておこう。私の退屈な講義であなたが居眠りしていたかもしれない。寝ないでね! もうすぐマジックをやるんだから。見逃したくないでしょ!

繰り返し: 因果関係があるように見える2つの出来事が起きるのを見ると、あなたの脳は自然かつ自動的に、強化される。これは「サクセスストーリー」としても知られている。鶏は全くの偶然に、ツイストと同時に正しい音符を見つけた。それからペレットをもらい、そのあとはツイストがペレットの出てくる原因の1つだと信じるようになった。その思い込みは、それ以降強化され続けた。

そういうことだ。これが迷信の生まれるしくみなのだ。そしてほとんどの場合にそれは正しいということをご存じだろう。それがパターン構築ストラテジーがとても上手く機能する理由なのだ。ストーブに触れば指に火傷する。もう一度やれば、案の定、また火傷する。原因と結果。しかし正しい推論をしたというだけで、それが迷信じゃないとは言えないのだ! それが「真実」なのかどうかは、科学が示すまで分らない。迷信を公認された事実へと昇格させることが、科学の基本的な活動なのだ。

皮肉なことに、鶏の話は都市伝説だ。鶏を訓練したのが「自分の」異常心理クラスの学生だと教授が言ったのは本当なのか私には分らない。あるいは彼女は別な教授のクラスだと言ったのに、私が彼女のクラスだったと記憶していただけかもしれない。詳細なことを掘り起こすことはできると思う(多くの労力をかければ。これは20年も前の話なのだ)。そしてそれが真実かどうか明らかにできるかもしれない。そうなるまでは、これは都市伝説なのだ。

それは別に真実でないということを意味しない。「都市伝説」というのは中身のことについて言及しているのではない。伝達プロトコルについて言及しているのだ。Snopes.comを信じるなら、真実である都市伝説はたくさんある。それを都市伝説にしているのは、それが人から人へと伝えられるときに、誰が、どこで、いつという元々の話の詳細が保たれていないためだ。だからそれが真実だったとしても、それについて耳にする方法がそれを迷信にしているのだ。それが(必要なら再現可能な実験によって)確認されるまでは、それだけのものでしかない。

だから迷信というのは必ずしも悪いものではないのだ! 私たちは自分の耳にする、たぶん正しいと思う事実の1つひとつを確認することはできない。そうしていたら私たちは決して進歩しないだろう(個人としても、文明としても)。私たちは自分の知っていることの多くを当然のこととして受け取る必要がある。どの時点においても、私たちの知っていることのほとんどは迷信だ。それは正常なことなのだ。

そしてもちろん迷信の多くは、他の人々からウィルスのような伝搬によって伝えられる。伝搬の仕方の1つは都市伝説だ。別なものとして、残念だが、マーケティングがある。アイデアはどうにかして私たちへの道を見つけ出し、そして私たちはというと、何であれもっともらしく見えるものは信じる傾向がある。

先週このエッセイに書くことを考えていて、Googleで「技術的迷信」について検索し、2003年にジェフ・ラスキンが書いたこの素敵なACMのアーティクルを見つけた。この中で、彼は迷信の心理学的な基礎について少し話していて、あるポピュラーで広く行き渡っている迷信をからかっている。それは高価なオーディオケーブルは安いものに比べて音がいい、というものだ。この論文は絶対読む価値がある。そして最後のところには小さな珠玉のような洞察があり、この著者のノストラダムス的予言の力に驚いて息をのむことだろう。

 

誰かが睾丸をなくすまでは愉快な話

迷信には害がない。いいよね?

ある意味では。だいたいのところ。まあ普通は。前の節の要点は、(私たちみんなにとって)迷信は不可欠というだけでなく、脳の重要な機能でもあるということだ。私たちが信じていることのほとんどは迷信だが、お望みとあらば、どれでも信念を選んで調べ上げ、情報源でチェックし(たとえば、その情報源はWikipediaなのかNational Enquirerなのか? どちらも時に正しく、時に間違っているのだが、信頼性のレベルは大きく異なっている)、あるいは自分で再現実験することもできる。

人々が自分の周りの出来事に影響を与えコントロールしたいと強く望むときに、迷信は最も強くなる。しかしそれがあまりに難しい場合、彼らは願望的思考の魔法へと向かうことになる。風水に、泉の中の硬貨に、流れ星に、アジャイル方法論。

別にそれについて悪いことは何もない。

迷信の基本的な文化的問題は、信頼できる出所と信頼できない出所の違いを見分けられないときに現れてくる。そうして非科学を科学のように扱うようになる。自分が迷信的であることを認識していなかったり認めなかったりする人は、自分の信念をあなたへと広めることに何の呵責も感じない。

実際、彼らがそれを上手くやることができたなら、もし誰もがそれを信じるようになったなら、それはもはや迷信ではなくなる。(これは哲学者が科学的に受容されている事実さえ単なる迷信ではないかと疑う理由だ。前世紀において量子力学がこの問いかけを復活させた。) 彼らが自分の信じていることをあなたにも信じさせたいと思うのはそのためだ。それによって自分は間違っているかもしれないという悩ましい疑いを減らすことができるのだ。それが迷信的なコミュニティが生まれ、団結し、そして孤立する理由だ—彼らはグループの中で自己強化しているのだ。

これが、この10年の間にアジャイルをゆっくりと間違った方向に進ませたものなのだ。これは込み入った問題だ。そしてそれはアジャイルがあなたにとって「機能する」かどうかとはまったく関係のない話だ

問題は、それが広まり続けるなら、いつか多数派の意見となり、その時点でも信じていない人たちは、権威に対して上手く折り合えないために職を得られなくなっていくということだ。カウボーイがそうだ。なぜアジャイルの連中が彼らをカウボーイと呼ぶか今なら分るだろう。私たちにごろつきの非チームプレーヤーという烙印を押そうとしているのだ。ちょっと怖いよね?

彼らと技術的宗教的信仰を共有してないというだけのことで腕章を着けさせられたくはない。私はもう十分たくさん着けている。たとえばC++の教会は物理的にも道徳的にもマジョリティであり、あなたがそれを使わないなら、劣ったプログラマだと見なされる。慣れることだ。私たちは啓発されない時代を生きているのだ。

私に関して言えば、アジャイル方法論をあなたが使うのは全然結構なのだが、あなたがそれを同僚に押しつけようとするなら、それは人間関係上の侵害行為として扱われるべきで、それは風水を信じない人を差別するようなものだ。

マネージャが部下にアジャイルを押しつけるなら、それはより重大なこととして扱われるべきだ。叱責、従業員記録への記載、強制トレーニング、3ストライクでアウト。

火には火をもって戦う必要がある。それが私たちのキャリアの問題になる前に、彼らのキャリアの問題になることを望む。

私はそれについてよくジョークにしているし、今後もそうするつもりだ。しかしこれは本当に深刻な問題なのだ。

しかし先に進むことにして、これは終わりにし、もっと軽い話をしよう。私は子馬を見せると約束していたよね? 違う? そうだ、マジックだった。その通りだ。ため息。いいよ、じゃあ。何が出ようと、自分で望んだことなんだからね!

 

アナグラムと隠された意味

さて、あなたのために最後の迷信を用意した。アナグラムだ! ワーオ、これは最もポピュラーな迷信の1つだ。単語やフレーズの文字を並べ替えて、何か隠された意味が見つからないか見てみるのだ。それだけのことだ!

あなたがよっぽど迷信的なのでなければ—それも古い種類の、妖精とか、数秘術とか、ステロイドなしのオリンピックみたいなクレージーなものを信じているくらいに迷信的なのでなければ—あなたはアナグラムには別に隠された意味なんかないことを知っているだろう。それは単なる意味のない偶然にすぎない。

正直に言って、十分熱心に探せば、狙った相手を表す言葉で、ほんとにひどいアナグラムを持つものを何か見つけ出すことはいつだって可能だ。これは単なる偶然なのだ(通常は不運な)。スピロ・アグニュー†はこのことを歴史上の他の誰よりもよく知っていると思う。

† Spiro Agnew: ニクソンのときの副大統領。"Spiro Agnew"は"grow a penis"のアナグラムになっている。

しかしそれでも・・・ときどきそれが本当に偶然とは信じがたいことがある。私が20代の中頃に、自分のフルネーム(Stephen Francis Yegge)をアナグラムソルバーにかけて何が出てくるか見てみたことがある。あ痛っ! そのころ私は体重と格闘しており、私の名前の意味のあるアナグラムはすべて太っていることに関わっているように見えた。最悪なのは"piggery, hence fatness"(豚のようにどん欲だから太るんだ)だった。うわっ。私は呪われているのか? そんな風に感じられた。

一方、弟のデイブはげんなりしていた。「どうして僕のは全部病気についてのなんだろう? これはだめだ!」 私は昨日のことのように覚えている。"David Francis Yegge"(私の両親のなんて独創的なこと!)から出てきたアナグラムは、"gas acid fever dying"(ガスと酸と熱で死ぬ)とか、"dying grief cave sad"(死にかけの嘆きの洞窟の悲しみ)なんかだった。デイブはもちろんそんなのはうれしくなかった。隠された意味なんかクソッタレだと宣言して、彼はそのプログラムで遊ぶのをやめてしまった。彼がその後の生涯であのプログラムを再び使うことはなかったと思う。

「隠されたメッセージ」というのはそういう偶然のことなの? ああ、そうだ。そういうものだ。理性的でまっとうな観点からすれば、単なる不運としか言えない。問題は、私たちの脳は、時々理性的になろうとしないということだ。

最後に1つ例をあげて終わりにすることにしよう。そしてこれは汚いトリックだ。私より節操のあるブロガーなら品位に関わるような。これだけ迷信について文句を言った後に、私は自分の悪巧みのために迷信を使おうとしているのだから。

もちろん仮定の話としてだが、あなたが何かの言葉の文字を、単なる好奇心から、並べ替えようとしていたとしよう。そう、たとえばAgile Manifestoなんかどうだろう。たわいのない実験で、それ以上の意味はない。(「ねぇ、害はないって! 私にはうまく行ったんだ! 私は1990年からずっと文字を並べ替えてるんだから!」 あほくさ。)

まあ、おそらくは、意味のない退屈なアナグラムがたくさん出てきて、それなりに面白いのが1つか2つ見つかるかもしれない。

しかし本当に明確なメッセージを、ことに長い語を含むようなものを望むなら—隠されたメッセージであることが間違いないようなものを望むなら—おそらく失望することになるだろう。

じゃあやってみよう。害はないって。

"Agile Manifesto"の2語からなるアナグラムはいくつくらいあるのだろう?

どう思う? 1つしかないのだ。Egomania Itself (それ自体が自己中心的)だ。

そういうこと。これを見たとき、これはちょうどあなた方のやってることだと思ったよ。:-)

きっとあなた方は確率とか統計とかランダム性の基本的な性質とかについて持ち出して、顔が青くなるまで「卑怯だ! フェアじゃない! スポーツマンシップに反する! ローブローだ!」と叫ぶのだろう。そしてあなたはたぶん正しい。

しかし最後には、ねぇ、あなたは認めなきゃいけない。これがすごく気味の悪い偶然だってことを・・・

(幽霊屋敷のコウモリの音楽が流れる)

・・・あるいは本当にそうなのだろうか?

(ショーのエンディングの楽しげな音楽が流れる)

次回をお楽しみに! アジャイルについては、取りあえずもう終わりにしようと思う。ニンニクを口に押し込んで、木の杭を心臓に打ち込んでやったら、そいつはメロドラマみたいな退散のジェスチャーをして、握り拳を振りまわし、次回きっと復讐してやると言っている!

これで私は自分の評判を悪くせずにすむ退屈な話題に戻ることができる。たとえばGoogleみたいな。

ショーを楽しんでいただけました?

 

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オリジナル: Egomania Itself