私に娘がいるとしたら・・・ (TEDTalks)

Sarah Kay / 青木靖 訳
2011年3月

 

私に娘がいるとしたら
その子は私をママではなく “B地点”と呼ぶだろう
そう覚えていれば
何が起ころうとも 少なくとも私にたどり着けるから
私はその子の手の甲に太陽系を描いてやる
そしたら宇宙全体のことを学ばなければならなくなるわ
「自分の手の甲みたいによく知ってる」と言う前に

人生が顔を強くぶつことも学ぶだろう
そして立ち直るのを待って お腹に蹴りを入れることも
でも息を詰まらせるのは 空気の味がどんなに好きか
肺に思い出させる唯一の方法なのだ
絆創膏でも 詩でも 治せない傷がある
ワンダーウーマンは来てくれないのだと 初めて気づくときに
その子に知っていてほしい
マントを全部一人で着なくてもよいのだと
手のひらをどんなに広げようとも
癒したい痛みをすべて受け止めるには いつだって小さすぎる
本当よ やってみたんだから

「それからね」私は言ってやるわ
「鼻をそんなに上向けないで
その手なら知っている 何百万回もやったもの
ただ煙の臭いがかげるだけ
だから燃えている家を辿って行って
火事ですべてをなくした男の子を見つけ
救えるかやってみることができるわ
あるいは そもそも火をつけた男の子を見つけ
変えられるかやってみることができるわ」

でもその子は どうせやるんだろうから
代わりにチョコレートと雨靴を 余分に入れておこう
チョコレートで癒せない心の傷はないもの
そりゃまあ癒せないのだってあるけど
そのために雨靴はあるんだもの
雨はすべてを洗い流してくれる
あなたがそう望むなら

その子にガラス底ボートの下を通して世界を見てほしい
人の心の中のほんの小さなところにある銀河を顕微鏡で覗いてほしい
だってママが教えてくれたことだから
こんな日もあるって
こんな日もあるってママが言っていた

捕まえようと手のひらを広げても 水ぶくれとアザができるだけ
電話ボックスを出て飛ぼうとすると
救おうと思ったその人たちが マントを踏んでいる
ブーツが雨で満たされるとき 絶望に崩折れるだろう
そういう時こそ ありがとうと言うべき理由が余計にある
何度押し返されようとも
海が岸辺にキスするのをやめようとしない様ほど
美しいものはないのだから
風を起こしては 何かを手にし 何かをなくす
お星さまをつける 繰り返し 繰り返し

1分間に地雷が何個爆発しようとも
この人生というおかしな場所の美へと
あなたの心をたどり着かせるように
1から信じすぎまで目盛りがある中で
私はすごく騙されやすい
でもこの世界がお砂糖でできていることを知ってほしい
すごく壊れやすいけど
舌を出して味わうのを恐れないで

「だからね」その子に言ってあげる
「ママは心配性だけど パパは戦士だし
あなたは小さな手と大きな目をして
もっと望むことをやめない女の子だわ
良いことが3つ一緒にやってくるのを覚えておいて
悪いこともそう
間違ったことをしたときは必ず謝って
でも絶対謝らないでほしいのは 目の輝きを失うのを拒むこと
あなたの声は小さいけれど歌うのをやめないで
そして彼らがあなたの心を傷つけ
戦いや憎しみをドアの隙間から押し込み
皮肉や敗北のパンフレットを街角で渡そうとするなら
あなたたち私のママに会うべきだわって言うのよ」

 

ありがとうございました

(スタンディングオベーション)

じゃあ、ここで少し時間を取るので、自分が本当だと知っていることを3つ考えてください。何でも構いません。テクノロジー、エンターテインメント、デザイン、家族のこと、朝食に食べたもの。難しく考えすぎないというのがルールです。準備いいですか? はじめ! (指で5つ数える) はい、いいでしょう。

私が本当だと知っている3つのことは、ジャン=リュック・ゴダールが、「良いストーリーには、始まり、中間、終わりがあるが、必ずしもこの順序通りではない」と言ったのは正しい。私はここにいて、すごく緊張し興奮しており、それが格好良くやろうとする私の能力を大いに妨げている。(笑) 私はこのジョークを言おうと一週間ずっと待ち構えていた。(笑) かかしはなぜTEDに招かれたのか? 彼の畑では頭1つ抜け出しているから。(笑) ごめんなさい。これが私が本当だと知っている3つのことです。私が理解に苦労することはたくさんあります。だから詩を書いて分かろうとします。詩を書くことが、私にとって何かを克服する唯一の方法という時があります。詩の最後まで行って振り返ってみると、「ああ、こういうことだったんだ」と分かります。また時には詩の最後まで行っても何も解決しないこともありますが、少なくともそこから新しい詩が1つできます。

スポークンワードはパフォーマンスとしての詩です。これは紙の上にじっとしていようとしない詩を作るということで、声として聞かれることを、直接的に体験されることをその何かが求めるのです。中学1年の時の私は、緊張ホルモンの塊みたいでした。成熟不足で、興奮過剰でした。長く見つめられることへの怖れにもかかわらず、スポークンワードの考えに魅了されていました。私が密かに憧れていたのは詩と演劇で、それが1つになって子どもができたとあれば、その子のことを知る必要がありました。それで試してみることにしたのです。私の最初のスポークンワードは、14歳の知恵をめいっぱい詰め込んだ、女らしくないと見られることの不当さについてでした。その詩は義憤に満ちたもので、やたら誇張されていましたが、それまで見たのが義憤の詩ばかりだったので、そういうのが期待されているのだと思っていたのです。初めてパフォーマンスしたとき、10代の聴衆からヤジや共感の声が上がり、ステージから降りたときには震えていました。誰かに肩を叩かれて振り向くと、フード付きのスウェットを着た体の大きな女の子がいました。背が2メートルくらいもあって、私なんか片手で叩きのめされそうでした。でも彼女はうなずきながら、「ねえ、私も同じように感じてた。ありがとう」と言ったのです。雷に打たれたようでした。それから夢中になったんです。

マンハッタンのロウアーイーストサイドにあるバーで、毎週、詩のオープンマイクがあるのを知り、戸惑いながらも理解のあった両親が連れて行ってくれ、スポークンワードの世界にすっかり浸れました。私はそこで少なくとも10年くらいは最年少でしたけど、「バワリー詩の会」の詩人たちは14歳がうろついていても気にかけず、むしろ歓迎してくれました。そこで詩人たちが話すのを聞き、スポークンワードは義憤でなくとも良いことを知りました。楽しいのでも、辛いのでも、真剣なのでも、馬鹿げたのでもいいのです。バワリー詩の会は私の教室となり、私の家となりました。そして参加していた詩人たちは、私にも話をするよう背中を押してくれました。私が14歳であることなど問題にせず、「14歳がどういうものか書けばいい」と言ってくれました。それで私はやることにし、この素晴らしい大人の詩人たちが、毎週私の話を聞いては笑い、共感の呻きを漏らし、喝采し、「ねえ、私も同じように感じてた」と言うのに驚きを感じていました。

私のスポークンワードの旅は、3つの段階に分けられます。ステップ1は「自分にはこれができる」と思った瞬間です。これはあのフードの女の子のお陰です。ステップ2は「私は続ける、スポークンワードが好きだから。毎週ここに戻ってくる」と思ったときです。ステップ3が始まったのは、自分の気持ちが義憤でなければ義憤の詩を書かなくて良いと知ったときです。私に固有なものがあり、それに集中すればするほど、私の詩は変わったものになりましたが、より自分のものと感じられるようになりました。よく言う「自分に分かることを書け」ということだけでなく、これまでに集めてきた知識と経験のすべてをまとめて、未知のことへ飛び込む糧にするのです。私は詩で分からないものを乗り越えます。私がいたあらゆる場所の詰まったバックパックを背負って、新しい詩に出会うのです。

大学に入って、このスポークンワードの魔法に対する考えを共有できる仲間の詩人に出会いました。フィル・ケイと言い、たまたま私と名字が一緒なんです。高校生のとき私はProject V.O.I.C.E.を作って、一緒にスポークンワードをやるように友達を誘っていました。フィルと私はこのProject V.O.I.C.E.を改めて始め、スポークンワードによって楽しみと教育と刺激を生み出すことをミッションにしました。私たちは学生でしたが、合間の時間に旅をしてパフォーマンスし、みんなに教えました。9歳児から美術学の大学院生まで、カリフォルニアやインディアナからインドまで、公立高校や街角から大学まで。

そしてスポークンワードが鍵を開いていくのを何度も見てきました。でも詩を書くというのは時にとても怖く感じるものです。10代の子に詩を書かせるには何か仕掛けが必要なことが分かりました。それでリストを使うようになりました。みんなリストなら書けます。最初に書かせるリストは、「私が本当だと知っている10のこと」です。そしてみんなで互いにそのリストを共有すると見つかるものがあります。ある時点で、誰か他の人も自分のリストにあるのとまったく同じか、かなり近いものを持っていることに気づきます。それからまったく逆のものを持っている人に気づくこともあります。今まで聞いたこともないようなものを持っている人もいます。それから何か知っているものだけど、新しい見方をしているということもあります。ここが素晴らしいストーリーの始まるところなのだと教えています。自分が情熱を持っていることと、他の人が投じてくれたものが、この4つの点で交わる部分です。

多くの人はこの課題にとても良く応じてくれます。でも生徒の1人、シャーロットという1年生は違いました。シャーロットはリストならとても良く書けるのですが、詩を書くことは拒んでいました。「先生、私面白くないんです。詩に書くほどのことは何もありません」と言います。それでいくつもリストを書かせました。「私が学んでいるべきだった10のこと」というのをある時書かせると、シャーロットのリストの3番目に「年齢が3倍の人に恋すべきではなかった」とありました。どういうことか聞いてみたら彼女は、「先生、長い話になるんですけど」と言います。私は「シャーロット、すごく興味あるわ」と言いました。それで彼女は初めて詩を書きました。私がこれまで聞いたこともないような恋愛詩です。その詩はこう始まります。

アンダーソン・クーパーという華麗な男がいる
60ミニッツで彼が マイケル・フェルプスと
プールで競争したのを見ただろうか?
水泳パンツひとつで水に飛び込み
水の王者を打ち負かそうとしたのだ
ゴールした後 雲みたいに白い濡れた髪をかき上げながら
“あんたすごいよ”と言ったけど
すごいのはあなたの方 アンダーソン・クーパー

(笑いと拍手)

クールであるためのルール第1番は、動じないこと。何事にも恐れず、感心せず、興奮しないかのように見せるということです。それでは人生を、(腕を防御するように構えて)こんな風にして歩んでいるようだと言った人がいます。予期しない悲嘆や傷心からいつも身を守ろうとしているのです。でも私は、(落ちてくるものを集めるように手を広げて)このように人生を歩もうとしています。そうすることで、あらゆる悲嘆や傷心を受け止めることになりますが、同時に、美しく素晴らしいものが空から降ってきたときに、つかまえられる準備ができています。生徒たちがスポークンワードを使って、好奇心を再発見する手助けをしています。クールで動ぜずにいようとする本能に反して、まわりで起きていることに積極的にかかわり、そして再解釈し、そこから何かを作れるように。

スポークンワードが理想の形態とは限りません。私はいつも、そのストーリーに一番ふさわしい方法を探します。ミュージカルを書くことも、短編映画を作ることもあります。スポークンワードを教えているのは、それが誰にでもできるからです。楽譜を読めない人やカメラを持っていない人はいても、誰でも何かの形ではコミュニケートでき、他のみんなが何かを学べるようなストーリーを誰しも持っているものです。加えてスポークンワードは即座の繋がりを生み出します。孤独だとか、誰も理解してくれないと感じている人は少なくありませんが、スポークンワードが教えてくれるのは、自分を表現することができ、自分のストーリーや意見を示す勇気を持つなら、部屋いっぱいの仲間や耳を傾けてくれるコミュニティから報いを受けられるということです。もしかしたら大柄なフードの女の子と、あなたの話によって通じ合えるかもしれません。それは驚くような気づきです。とくに14歳には。今ではさらにYouTubeがあります。繋がりはその場だけに留まりません。生徒たちと共有できるパフォーマンスの倉庫があるのは、私にとってすごく幸運なことです。それは生徒たちに、繋がりを持てる詩人や詩を見つけ出すより多くの機会を与えてくれます。

一度やり方が分かると、繰り返し同じ詩を書き、同じストーリーを語るようになりがちです。それで喝采をもらえるのが分かると。自分を表現できると知るだけでは十分でなく、成長し、探索し、リスクを取り、自分に挑戦する必要があります。それがステップ3です。自分を自分たらしめているものを自分の作品に注ぎ込むこと。たとえそれが常に変わっていようとも。ステップ3は終わることがないのです。でもステップ3にたどり着くには、ステップ1の「私にはできる」を乗り超える必要があります。

教えているとき旅をたくさんします。生徒がステップ3にたどり着くのをいつも見られるわけではありません。でもシャーロットのときはラッキーでした。彼女の旅が展開していくのを見られました。自分が本当だと知っていることを作品に込めることで、自分だけが書ける詩を作れることに彼女が気づくのを目の当たりにしました。「目玉」に「エレベーター」に「ドーラといっしょに大冒険」。私は自分だけが語れることを語ろうと努めています。このストーリーのように。私はこのストーリーを語る一番いい方法は何かとずっと考えてきました。PowerPointだろうか、短編映画だろうか。始まりと中間と終わりは、正確にどこにくるのか? この講演の最後まで行ったら、すべて分かるようになるのか、ならないのか。

バワリー詩の会がはじめだと思っていましたが、もっと早い時期だったのかもしれません。TEDの準備をしていて古い日記のページを見つけました。(たどたどしい字で「日記さんへ クリスマスの夜 くらやみに 虹があった」と書かれたページ) 12月54日というのは24日の間違いだと思いますけど。私は子どもの頃既にこのような人生を歩んでいたのです。私たちはみんなやっているのだと思います。私は他の人が好奇心を再発見する手助けをしたい。それに関わり、学びたい。彼らが学んだこと、本当であるのを見つけたこと、探していることを共有したい。

詩で締めくくりたいと思います

 

ヒロシマに爆弾が落とされたとき
爆発は小さな超新星となって
動物も 人も 植物も
その太陽からの光に直接触れたものはみな
一瞬にして灰になった

この都市に残されたものも すぐにそうなった
長期間続く放射能のダメージは
都市の全体とその住民を粉へと変えた

私が生まれたとき ママの言うには
病室を見回す私の眼差しはこう語っていた
「これ? フン 前にもやったことあるわ」
私は大人の目をしていたのだと

ゲンジおじいちゃんが亡くなったとき
私はまだ5歳だったが
母の手を取って言った
「大丈夫よ 赤ちゃんになって戻ってくるんだから」

もう誰かこれをやっているみたいだけど
私はまだ何も分かっていない
今でもステージに上がると膝がガクガクする
私の自信はティースプーンで量れ
詩と混ぜ合わされて いつも口の中で妙な味がする

でもヒロシマでは 人々がきれいに払拭され
腕時計と日記のページだけが残された
だからポケットを満たすのにどれほど抑制があろうとも
私は努力し続け いつか誇れるような詩を書きたい
博物館に展示され 私の存在した唯一の証拠となるように

両親は私をサラと名付けた
聖書に出てくる名前で
物語では 神がサラに
「おまえには不可能なことができる」
と言ったとき 彼女は笑った
だって最初のサラは 不可能なことを
どうすれば良いのか分からなかったから

私? 私にも分からない
でも不可能なら毎日目にしている
不可能は この世界で繋がろうとすること
まわりでものが吹き飛んでいるときに
他の人につかまっていようとすること
こちらが話している間に
相手は自分の番を待つだけでなく
聞いているのだと知ること
彼らはあなたが感じるのと同時に
あなたが感じることを感じる
私が口を開くときに いつも努力していること
それがこの不可能な繋がり

ヒロシマにある壁があって
放射線で真っ黒に焼け焦げているが
階段の最初の段に座っていた人がいて
光線が石に当たるのを防いでいた
今残されているのは
ポジティブな光の永遠の影だ

原子爆弾の後
放射能で損なわれたヒロシマの土に
再び植物が生えるには75年かかるだろうと
専門家は言っていた
しかし次の春には 地面から新しい芽が生えだした

私があなた方と会うその瞬間
私はもうあなた方の未来にはいない
私は速やかにあなた方の過去になる
しかしこの瞬間 あなた方の現在を共有している
そしてあなた方も 私の現在を共有している
これがあらゆるものの中で最大の贈り物だ
だから私に不可能ができると言うなら
私はたぶん笑うだろう

私は世界を変えられるのかまだ分からない
そんなに知ってるわけではないから
生まれ変わりについてもあまり知らない
でも私はひどく笑わせられると
時に自分のいる世紀さえ忘れてしまう
私がここにいるのは これが最初ではない
私がここにいるのは これが最後ではない
これは私の伝える最後の言葉ではない
でも 万一のため
今回をきちんとやろうと 精一杯努力している

 

ありがとうございました

(スタンディングオベーション)

 

[これはTED公式日本語訳です。翻訳をレビューしていただいたMaki Shimura氏に感謝します。]

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オリジナル: Sarah Kay: If I should have a daughter ...