PowerPointの罠

Peter Norvig / 青木靖 訳

代名詞や区切り記号がほとんどない世界をイメージしてほしい。どんな複雑な考えであっても7語のチャンクへと分解され、その間にカラフルな斑点が置かれている。これはカート・ボネガット が「ハリスン・バージロン」に描く反ユートピア的な未来の姿のようだ。そこでは知性の高い市民はヘッドセットで耳を聾するような放送を聞かされており、それというのも知性の劣る人に対して彼らが不公平なアドバンテージを持たないようにするためなのだ。しかし最初に述べた世界というのはフィクションではなく、今日におけるPowerPointプレゼンテーションの姿だ。それが一日に3000万回も繰り返されているというのが現実なのだ。[5]

ニューヨーカー誌でスタンフォード大学のクリフ・ナスはPowerPointが 「下限を引き上げる」と書いている。[1] たとえプレゼンターが口籠もったり言い忘れたり、あるいは何にせよまったく下手な場合であっても、PowerPointがあれば要点は伝えることができる。しかしPowerPointは同時に 「上限を引き下げ」もする。話者と聴衆との間で自由なやり取りをするとか、アウトライン形式にうまく収まらないアイデアを伝えるとか、本当に感動するようなプレゼンテーションを行うことをPowerPointは困難にする。同じことを私はゲティスバーグPowerPointプレゼンテーション(図)[2]を作ったときに思っていた。そしてPowerPointにいら立っている何十万という人たちが、このパロディのプレゼンテーションを見にやってきている。私はこのプレゼンテーションを作るのにPowerPointのインスタントウィザードを使っていて(パーカー[1]はこれを 「対象となる顧客を直接嘲笑した製品名として稀有な例」と評した†)、標準のフォーマットに対して追加したのは「課題ではないこと!」という一枚のスライドだけだ。

†英語名はAutoContent Wizardで、これは「内容を自動的に作成するウィザード」ということ。

リンカーンのゲティスバーグ演説のような偉大な歴史的スピーチにPowerPointが迫り得ないということは誰も驚かないだろう。そして興味深いものになり得たプレゼンテーションが、紋切り型のPowerPointにはめ込むことによってつまらないものになってしまうというの も残念なことだ。しかしPowerPointが単に退屈さをもたらすというだけでなく、間違った決定をもたらすことになるとしたら、それは残念どころの話ではなく、悲劇だ。

PowerPointなしでなされた優れた意思決定としては、たとえばアポロ計画のプログラムマネージャ、ジョージ・ロウの1968年8月9日の覚書がある。[3]  8時45分、ロウはヒューストンのセンター長ロバート・ギルルースにアポロ8号のミッションを月の周回に変更するよう進言した。これは以前のプランに対し野心的な変更だった。ギルルースはそれに同意した。9時00分、ロウはフライトディレクターのクリス・クラフトに会い、技術的に可能なことを確認した。9時30分、ロウ、ギルルース、クラフトはこのアイデアをウェルナー・フォン・ブラウンに提案すること で同意。彼らはフォン・ブラウンやその他の人たちと14時30分に会合をするためハンツビルに飛んだ。月周回計画はその日暫定的に了承されることになった。そのちょうど4ヶ月後、アポロ8号は月を周回し、史上初の 「地球の出」の写真を撮影した。

今日のたくさんの官僚的な人々がフォントや背景を選んでいるようなときに、ロウがいったい何を成し遂げたかということを考えて欲しい。彼は歴史上もっとも複雑、かつ国家安全保障に重大な関わりのあるエンジニアリングプロジェクトの、十億ドルという金のかかった決断にコンセンサスを取り付けたのだ。PowerPointはそのために何の助けにもなり得ない。

今日のNASAでは複雑な事実をPowerPointの限定された形式に押し込む必要があり、それがコロンビア号の悲劇におけるまずい決断の一因となっていることを、グラフィックデザイナのエドワード・ タフティ が書いた最近のエッセイが示している 。[4] タフティはPowerPointのスライドの限られた解像度が、それに複雑なチャートやグラフをつけることを不可能にしており、完全な 文章を書くことさえできないことを指摘している。結果としてプレゼンテーションの意図する内容はあいまいなものとなってしまう。

ジョージ・ロウたちが行った詳細な情報に基づく決断はどうすればできるのだろう? 問題となっている事柄に精通し、かつ情熱を持っている専門家を集め、技術的に可能な範囲を探るべくデザインされた一連の質問について討論することが鍵であると思える。彼らは説得し合うのではなく、最善の決断に達すべく努力する必要がある。シカゴトリビューン紙はMITのシェリー・タークルの次の言葉を引用している。[5] 「強い[PowerPoint]プレゼンテーションというのは、議論を開くのでなく、封じ込めるようにデザインされている」

プレゼンテーションやミーティングは、人々を退屈させるようにではなく、そこに集った人々の力を活用するようにデザインすることだ。誰もが(みな同じテンプレートを使って)意見を前もって固めているなら、他の人の意見の上に意見を構築したり、ミーティングの中で協同して新しいアイデアを生み出 したりできる余地はあまりない。均質性というのは牛乳であればいいことだが、アイデアのためにはいいことではない。視覚的な情報を伝えるために、写真やチャートやダイアグラムのような視覚的な素材を使うのはいい。しかしそれらの素材と短い箇条書きの要約によって問題が解決されている印象を与えようとはしないことだ。


Peter Norvig
2400 Bayshore Parkway, Mountain View CA 94043 USA
(e-mail: peter@norvig.com)


[1] Parker I. "Absolute Powerpoint" (ニューヨーカー誌 2001年5月28日)

[2] Norvig P. "The Gettysburg Powerpoint presentation" (1999年1月) [日本語版]

[3] Wade M. "Decision that Apollo 8 should be a lunar orbital mission" (SpaceDaily 2002年6月26日)

[4] Tufte E. "The cognitive style of PowerPoint" (2003年5月)

[5] Keller J. "Is PowerPoint the devil?" (シカゴトリビューン紙 2003年1月22日)



87年前、私たちの父祖たちは、自由を胸に抱き、人間はすべて平等であるという理念を掲げて、この大陸に新しい国を作りました。私たちは今大きな内戦に直面し、その国が、あるいはそのような思いを抱きそのような理念を掲げるどのような国であれ、長く存続しうるものなのか試されることになりました。私たちはその戦争の大きな戦場に集い、この国を生き残らせるために命を捧げた人々の最後の安らぎの地として、その戦場の一部を捧げることにしました。私たちがそうするのはまったく相応しく、適切なことです。しかしより大きな意味においては、私たちにはこの土地を捧げることも、清めることも、神聖にすることもできません。ここで戦った勇ましき者たちが、生きている者も死んだ者も、私たち力なき者がつけ加えたり減らしたりするよりも遥かに、この地を神聖なものとしているのです。私たちがここで言ったことを世界は気づくことも長く記憶に留めることもないでしょう。しかし彼らがここで為したことが忘れられることは決してありません。ここで戦った者たちが気高く推し進めてきた未完の仕事に打ち込むべきなのは、むしろ私たち、生きている者なのです。私たちの前に残された大いなる仕事に身を捧げるべきは、ここにいる私たちなのです——彼らが最後の献身を傾けた理想に対し、私たちは誉れある死者たちから引き継いだ仕事に、さらに大きな献身をもってあたり——ここにいる私たちはあの命を落とした者たちの死を無駄にしないと固く決意し、この国は、神の元、新しい自由の誕生を迎え、そしてその人民の、人民による、人民のための政府が、地上より消え去ることはないでしょう。

-- エイブラハム・リンカーン

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オリジナル: PowerPoint: shot with its own bullets