Re: どうしてオタクは好かれないのか

Paul Graham / 青木靖 訳

どうしてオタクは好かれないのか」に関しては意見をメールで寄せてくれる人がたくさんいて、それよりもさらに多くの人が方々のWebサイトで書いているようだ。彼らの指摘している問題のいくつかについて、ここで答えることにしよう。

 

私の学校はそんなんじゃなかった。

私立の学校や数少ない優れた公立校に行っていた友人たちは、自分の学校は全然違っていたと言っている。

私がこのエッセイで書いたのはアメリカの平均的な公立中学・高校の状況だ。私はこのことに関しては良く理解しているという自信がある。私自身そこへ通っていたからだ。

怖いことが何かというと、私の行っていた学校はおそらく平均よりは良かったということだ。両親がその郊外の土地に住むことを決めたのは、そこの学校がいいという話を聞いたためだった。(イギリスから移住してきたばかりの人間には、「いい」というのがどれくらい悪いことなのか見当もつかなかったのだ。)

 

頭がいいけどオタクじゃない子供たちもいた。

頭のいい子供がみんなオタクになるわけではない。見た目がいいとか、スポーツができるとか、人気者の兄弟ということであれば、自動的に人気者になれる。しかし人気のある子供の多くはただでその地位を手に入れているわけではない。人気になるための努力をする必要があるのだ。そしてもし何かに、たとえば物理に興味を持っていたとすると、そんなことをしている時間はないのだ。

それから女の子というのは、同じくらい頭のいい男の子に比べてオタクになりにくい。これはたぶん女の子の方が社会的なプレッシャーに対してより敏感なためだと思う。少なくとも私の学校では、女の子は男の子よりも人に合わせる努力をしていた。

 

今では変わっている。アウトサイダーがかっこいいと思われているのだ。

私の学校では、ある種のアウトサイダーはかっこいいと目されていたが、オタクはそうではなかった。背が高く肩幅があり、反逆のしるしとして奇妙な身なりをしている人はかっこ良かった。背が小さく顎が引っ込んでいて大きな眼鏡をかけ、お母さんの選んだ服を着ているため奇妙な身なりをしている人はかっこ良くなかった。これは今でも変わっていないだろうと思う。

 

頭のいい子供の脳は違っている?

頭のいい人たちは神経学的に違ったところがあるのかもしれないと言う人がいた。つまり、頭のいい子が友達とおしゃべりするよりも本を読んで過ごす理由は、本が好きだからというよりも人間が嫌いであることの方が大きいというのだ。

あのエッセイでは、意図的にこの点について意見を言うのを避けた。彼らは一方を他方より好んでいるのだと、理由は述べずに言っただけだった。

私の経験では、頭のいい子の中には自閉症ぎりぎりという子もいるが、それが頭の良さとオタクであることとの関連を説明するわけではない。すごくおしゃべり好きのオタクだってたくさんいるのだ。実際、オタクの最も特徴的な欠陥のひとつは、ニュースグループへの投稿に夢中になっていることだろう。

 

オタクの方が悪い。

何人もの人が言っていたことがもうひとつある。オタクが好かれないのはオタクの方の問題であり、それは彼らがあまりに不愉快だから、ということだ。これはその通りのこともよくある。私がエッセイで議論したのはオタクが好かれないのはオタク自身のせいなのかどうかということではなく、好かれないのはなぜかということだった。確かにオタクが身につけようとしない社会的なスキルの中には、本当に望ましいものもある。

オタクの中には大人になってもずっと我慢ならない人間で居続ける人もいる。私の知っている頭のいい人間の中には、何分かより長く話す気がしないような人もいる。頭のいい人間が時に不愉快であるのを好ましいことだとは思っていない。しかしオタクは実社会で行われているのにごく近いゲームをしているのだと思う。まったくのくそ野郎でありながら、実社会ですごくうまくやっていくことだって可能なのだ。

 

オタクは傲慢だから好かれない。

傲慢さが子供を嫌われ者にするわけではない。私の学校にいたスポーツマンたちはすごく傲慢だったが、そのことが彼らの人気を損なうことはなかった。

 

公立校は悪いものとなるべくデザインされている。

ジョン・テイラー・ガットが書いたSix Lesson Schoolteacherを読んだのだろうと指摘する人が何人かいた。

公立校は能なしで従順な人間を作り出すようにと意図的にデザインされているのだという考えをよく見かけるが、私はそうは思わない。公立校というのは単にデフォルトで得られるものなのだ。郊外に巨大な建物を建て、平日の間ずっと子供たちを閉じ込めておき、働き過ぎの概ね退屈な大人何人かに面倒を見させたなら、能なしで従順な人間ができる。別に陰謀を仮定する必要はない。

学校の悪いところのほとんどは、良い方向へと押してくれる外的な力をまったく欠いていることによるのだと思う。スポーツ以外では互いに競うこともない(優れた者になるのはその点でだけだ)。親たちは学校の質の良さで住む場所を決めるかもしれないが、既存の学校より良いものを求めようとはしない。大学の入学事務局は、高校にもっと多くを求めようとはせず、その欠陥を補おうとする。程度の低い学校の生徒には期待するレベルを下げており、これはフェアなことではある。標準テストは明示的に準備よりも才能を測る目的でデザインされている(ただし成功はしていないが)。

形は機能に従う。あらゆるものは、それに求められることによって定まる形へと進化する。そしてみんな学校に対しては大学に入る年齢になるまで子供を表に出さないという以上のことを求めない。だから学校はそうしている。私のいた学校では、何も学ばずにいることは容易だったが、見とがめられずに外に出るのは難しかった。

 

この問題についてアメリカが最低なのはどうしてか?

これは推測にすぎないが、アメリカの学校システムが分散化されているせいではないかと思う。学校をコントロールしているのは地元の教育委員会で、それを構成しているのは高校時代にフットボール選手だったカーディーラーたちであって、PhDたちが動かしている教育省ではない。

もっとも連邦政府によりコントロールされるのが学校にとって必ずしもいいことであるわけではない。アメリカでは、NSAやCDCのような入念に隔離されている機関を別にすると、頭のいい人たちは連邦政府ではあまり働きたがらない。最良のプランは政府のコントロールとは反対の方向に行くことなのだと私立校の例は示している。

 

自宅学習はどうか?

自宅学習は直接的な解決策ではあるが、おそらく最適な解ではないだろう。親たちはなぜ大学の終わりまでずっと子供たちを家で教育しないのか? 大学が自宅学習では真似できないような機会を与えてくれるからだろうか? 高校だってちゃんとしていればそうありえたのだ。

 

あんなことを書いたのはなぜ?

(この問には通常「未だに高校を悪く言っているようなら負け犬にちがいない」という含みがある。) 私があれを書いたのは、友人たちがいまや子供を持つようになり、私たちが学校で堪え忍んでいたような恐怖からどうやって子供たちを守れば良いか悩んでいるからだ。

私が現在の知識を持ちながらもう一度高校に通わなければならないとしたら、私はどうするだろうと考えてみた。私の高校では、人気者になるか、いじめられるかのいずれかだった。私も今では人気になるために何をしなければならなかったのかわかる。しかしそれは何たる苦行だろう。好いてもらえるように延々と人に会わなければならない政治家みたいだ。だから人気になるためには正確にどうする必要があるか知っていたとしても、私自身そうすることはないだろうと思う。高校の時にそうしていたように、私は図書館へ行くことだろう。

 

どうすれば学校でもっと人気になれるの?

そうなりたいというのは本当に確かなの? 「どうしてオタクは好かれないのか」の要点の1つは、頭のいい子供が好かれないのは人気になるために必要となるくだらないことで時間を無駄にしないためということだった。あなたはそのくだらないことを始めようと思っているわけ?

 

 

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オリジナル: Re: Why Nerds are Unpopular