リスク忌避による死

Kathy Sierra / 青木靖 訳
2006年1月30日

Microsoftへのメモ: おたくはそこで驚くようなことをみんなにさせてきた。おたくがただいなくなってくれたなら、世界はいい方に変わるだろう。

リスク忌避はイノベーションを殺す要因として最大のものだ。これを患っているのはもちろんMicrosoftだけではない。なにしろリスクを取るというのはすごく・・・リスキーなのだ。しかし、もしリスクを取らないことがさらにリスキーであるなら、どうする?

確かに大企業が当てや策もなしにリスクを取るというのはまずいことだし、倒れるときには盛大に倒れることになるわけだけど、誰であれ無縁 なことではない。無難な選択をいたるところで目にすることだろう。私は今日ランチのときに共著者の1人と次のHead First本の表紙をどうしようかという話をしていて、私は彼が望んでいるのよりもっと「安全な」モデルを使うことを勧めた(彼の選択にみんなが不満を持つだろう論理的理由づけをしつつ)。自分の口からどんな言葉が出てきたか、 私は今でも信じられない。

ブログを書いていることも、これを簡単にしてはくれなかった・・・膨大な数のブロガーやコメンターたちが(あるいは声の大きな1人の人間が)自分のアイデアや試みの中に欠陥を見つけて飛びかかって くるかもしれないという不安は、勇敢になろうとする気持ちを萎えさせてしまう。だからここで(私を含む)みんなへの四半期ごとの注意喚起をしておこう。もしあなたのしていることを誰も嫌っていないのだとしたら、それはたぶん月並みなことなのだ。

ちょっとMicrosoftの話にもどろう・・・前の記事で、私はロバート・スコーブルがMicrosoftの問題を指摘するときに、よく「リスク忌避」という言葉を使っていると書いた。そして同じことをリズ・ローリーも言っている。彼女はMicrosoftの社員たちの考え出す製品やサービスのすばらしいアイデアと、世に出る最終的な製品やサービスとの間にある隔たりの大きさに驚きを示している。リズによれば、この2つの地点の間には、恐れの段階があるのだという。

しかしそれは誰の恐れなのだろう? リズのメタファー(彼女も誰かから聞いたもの)を使うと、多くの「葉っぱ」(MicrosoftやSunなどの会社が「個々の貢献者」と呼んでいるもの)はイノベーティブで勇気を持っているが、しかし多くの 「枝」(マネジメント階層)はそのリスクを受け入れられないのだ。強さと安定を望む(もっともな)欲求のため、「枝」は何よりも安全を優先させる。

それはどんな種類の安全なのか? マネージャはしばしば会社の利益を最優先にしている。それは結構だ——彼らは多くの経験を踏まえていて、より大きなコンテキストを見据えているからだ。しかし(そしてこれはものすごく大きな 「しかし」だ)彼らが単に自分の職を気にかけているだけということもよくあるのだ。言い換えると、葉っぱ/個々の貢献者は彼らの仕事がユーザーに与える影響について考えているのに対し、中間管理職は彼らの仕事が自分の地位に与える影響について考えている。これは誰の過ちなのだろうか? あの階層なす上司たちみんなのだ。命令系統の鎖の中に1人でもリスク忌避するボスがいたなら、イノベーションやスピリットやモチベーションなどに大きなダメージを与えうる。

だから私たちの「若い人のためのキャリアアドバイス」にもうひとつスキルを追加しておくことにしよう: 喜んでリスクを受け入れられること! おそらくさらに重要なのは、あなたが管理する人たちがリスクを取ることに喜んで耐える(むしろ鼓舞する)ということだ。もちろんこれが言うは易く行うは難いことはわかっている。私はSunやその前にいた多くの場所で 「葉っぱ」の方だった。私が「枝」として仕事したのはほんのわずかだ(そして私はボスとしては最低だ)。

しかし気持ちを押しつぶしてしまうリスク忌避に対して何かできることはあるのだろうか? それを認識するというのが第一歩だ。あいにくとそれを認識しているのは葉っぱの人たちばかりということが多い——アイデアを生み出し実現する力は持つが、それを正式なものにする力はわずかしか持 っていない。変化を生み出せる可能性を多く持っているのはの方だ。手がかりをつかんだマネージャたちだ。

私がSunにいたときの上司は、そういう人の1人だった——Jari Paukkuは現在はフィンランドNokiaの「上級改革管理スペシャリスト」だ。彼は自分より上の人たちを上機嫌にさせておきつつ、自分より下の人たちに情熱を失わせないようにするという、 か細い綱の上を歩く方法を心得ていた。彼は闘うべきところがわかっており、顧客とチームの両方のために正しいことをするのを信条としていた。しかし彼は自分がクビになるのが(私のような)「葉っぱ 」にとって良くないことであるのも理解しており、私たちが思いつくあらゆるクールなアイデアを好き勝手にやらせることはなかった。アイデアに価値があるなら、そしてそれが顧客にとって適切なことであるなら、彼は私たちがそれを実現できる道を見つけるのを助け(たとえこっそり裏口を使ってでも)、あるいは少なくとも可能性の種を蒔いておいた。

リスク忌避に対処するための一般的なヒントがいくつかある。

神聖視されているものを定期的に見直す

自分のあらゆる判断について、背後にある前提を定期的に見直す

それらの前提は今でも有効だろうか?


捨てることを実践する

これは仏教が強みを持つ領域だ。あまりに多くの人が、賞味期限のとうに切れた(神聖視されたものも含む)プラクティスやアイデアを持ち続けている。それがもはや役に立たないなら、たとえ過去にどれほど役に立っていたのだとしても、捨てる時なのだ。

もちろん「捨てる」というのは一時的には苦痛や不便を伴う。「私は最低だ」という段階が再びやってくる。しかしプロのアスリートたちは、停滞を打開しようとするときにこれをやる。碁の競技者は段位を上げようとするときにこれをやる。ミュージシャンは癖やスタイルを捨てる。プログラマもやっている(誰かウォーターフォールを まだ使っている人は?)。物書きもこれをやっている。スキーからスノーボードに(あるいはレギュラーから「グーフィーフット」に)切り替えた人はみんな、捨てることを学んでいる。

スチュワートカタリナが彼らの製品をゲームにすることを捨てたことで、それはFlickrになることができた。O'Reillyは技術書がテキストであること捨てたときにこれをやった(ついでに本が印刷物であることをやめたときにも)。

簡単で馴染んだことは安全だが、そこには時に組込まれたスケールしない壁がある。こちら側から向こう側に行くことができないのだ。


境界を戦略的に一歩一歩押し拡げる。

あなたが葉っぱであるにせよ枝であるにせよ、戦いは慎重に選び、1度に1つ仕掛けることだ。生き延びて善戦し続ける方が、一度にすべてやろうとしてクビになるよりいい。


社内でサポートを得るためにブログを使う

Microsoft社員ブロガーたちの集合的な力は、葉っぱである彼らと、彼らを管理する勇敢な枝の人たちへのサポートを作り出す助けになっている(小さなステップながら)。そしてこのヒントは、ロバート・スコーブルが他のMicrosoft社員に送ったリスク忌避と闘うためのアドバイスでもある。


他のすべてが失敗し、リスク忌避の文化があなたの魂を損ない続けているなら、「短期滞在」モードでやってみる。

これは私がSunにいたときに取った方法であり、あなたが心を失うところに危険なほど近いときにお勧めする方法だ。あなたはたぶんクビになるだろうが、少なくとも多くの騒動を引き起こしていいことができる。そしてその後どんなことが起こるかは決してわからない・・・私のぶざまなSunの退社から何年かたった今、私はSunといくつかの重要な領域(彼らのプログラマ /開発者認定試験の大部分の開発の指導を含む)で契約しているだけでなく、私はSunのJava Championsプログラム(名前がヘボなのはわかっている。テクノロジー企業で「チャンピオン」って何のことだ?)の創立メンバーだ。そして私が.NETに乗り換えてくれることを切望している人たちがいる部署の電話会議に出ていたりするのだ。


人生は短いということを自分に思い出させる!

ひどい病気をしたり大きな損失を経験することのいい側面は、時が過ぎ去っているということ、そしてあなたにはいつでも変えるという選択肢があることに気付かせてくれることだ。あなたがすごいアイデアを持っているなら、それを追い求めないリスクを犯すというのはどういうことだろう? 試してみて失敗したところで、何もしないよりも後悔するだろうか? 最良最大のアイデアの多くが大企業の枠内で起きているのかもしれないが、しかし世界を変えるようなことは別な場所で起きているのだ。

 

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オリジナル:  Death by risk-aversion

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