ワインバーグのコンサルティング目標

Gerald M. Weinberg / 青木靖 訳
2006年5月23日 火曜

ある朝、すごく早く目が覚めて、風呂場を巡回していたネズミを驚かすことになった。

こちらもまた驚いたので、それ以上暗い家の中をうろつくことはやめにした。 身を守るためぶち模様の猫のベバリーを伴い、読もうと思っていたアーティクルの束を持って、妻のダニといっしょに仕事部屋に立て籠もった。

その中にあった一組のアーティクルには特に興味を引かれたが、それは「コンピュータは我々の生活にどう影響を与えるか」についての見方を示したものだった。私がその重要性を見過ごし得ないトピックだ。もしかしたらMacでネズミを捕るプログラムの書き方を学べるかもしれない。それは確かに私の生活に影響を与えるに違いない!

私には目をはっきり覚まさせるものが二重にあったわけだが、最初のアーティクルは最後まで読めそうになかった。そのエッセイが1ページしかなかったにも関わらず、私の心はあらぬ方へとさまよい出した。アーティクルの3つ目のパラグラフの、1文で47語ある文章の中程あたりで私は筋を見失い続けた。ベバリーを撫でて自分を慰めたが、何の助けにもならなかった。

警護の仕事がもっとよく果たせるようにとベバリーは床の上に戻し、最初のアーティクルは飛ばすことにして、次のアーティクルに進んだ。これはどちらも賢明な判断だったようだ。ネズミがクローゼットの扉の下から出てくることもなかったし、2番目のアーティクルはその後の猫とネズミのやりとりに劣らないくらい面白かった。(ベバリーはネズミを捕まえられないが、ネズミはそんなことを知らない。)

私は始めのアーティクルに戻ってみたが、駄目だった。実際最初の時よりもっと悪くなっていた。2番目のアーティクルのおかげで基準が引き上げられていたため、最初のやつはお話にならなかった。アーティクルを最後まで読み通すにはどうすればいいかとあれこれ考えていて、ふと著者の名前に目を止めた。彼の名をドクターXとしておこう。

うれしくないことに、私はドクターXを良く知っていた。ドクターXの書いたアーティクルで読もうとしたものが1ダースくらいあったが、どれ1つとして最後まで読んだものはなかった。一度などは、あまりにイライラしたために、ドクターXのアーティクルのFog Index(読みやすさの指標)を測定してみたくらいだ。技術文書で許容されるFog Indexの上限は12とされている。(このエッセイのFog Indexは10くらいだ。) ドクターXのFog Indexは41だった!

ドクターXの書いた文章は、学識と難解さで教授に印象を与えようと試みている社会学の大学院生を思わせる。私はドクターXを前の晩に読まなかったことを残念に思った。その催眠効果は温かい一杯のミルクと睡眠薬2錠よりも効いたことだろう。そして朝早く目が覚めて恐ろしいネズミに出会うこともなかっただろう。

この話の要点は何か? 面白いことに、ドクターXの書いたものの麻痺させるような効果にもかかわらず、私は彼を失敗した著者だとは思っていない。彼の書くものはあまりにひどくて、私は彼の文章の中身に入り込むことができない。結果として、彼のぞっとする文章と彼の題材とを結びつけることにはならず、彼の文章を1ダースも読もうと試みた後でも、私は題材自体への興味を失うことはなかった。

これと対照的なのがミスターYだ。彼もまた私が好む主題である、システム理論について書いている著者だ。ミスターYの文章のFog Indexは18くらいで、ドクターXと比べればずっと低く、本当に興味ある題材であれば十分耐えられる範囲内だ。しかしミスターYの文章には別な資質がある。単純なFog Indexでは捉えられない資質だ。そしてその資質が、ミスターYを失敗させているものなのだ。

その資質とは何か? 彼の文章を読むといつでも、その題材に対して嫌な印象が残るのだ。ドクターXは私を変えないが、ミスターYの方は、さらに学ぶことから私を遠ざけてしまうのだ。私からすると、これは著者や教師が犯しうる究極の罪だと思える。

私が本やエッセイを書いたりセミナーで教えたりするときには、失敗について基本的な基準を設けている。これをワインバーグの目標と呼ぶことにしよう:

私の作品に触れた後、受け手はその題材について前より関心をなくしてはいないか?

この質問に対する答がイエスなら、私は失敗したことになる。

答がノーであるなら、私は成功したのであり、そのことを嬉しく思う。私の目標をあなたは慎ましすぎると思うかもしれない。学生に何かを学ばせるとか、その題材を好きにさせるとか、そういったもっと大きな結果を望 むかもしれない。なに、私はそんなすばらしい結果に驚きはしないよ。しかしそれが著者や講演者に期待するのに適当な目標だとは思わない。

私の目標が慎ましすぎると思うなら、自分自身の学習経験を振り返ってみるといい。読んだ本や、受けたセミナーに、見た映画。そういったものの中でワインバーグの目標を達成できているものがどれくらいあるだろう? 授業なら1/10、教科書なら1/5、 「教育的」映画なら1/20がせいぜいだろう。それより多いと言う人には滅多にお目にかからない。

だからワインバーグの目標はとても慎ましいものではあるが、それを個人的な目標として採用することには十分意味があるのだ。すべての学生に対して(あるいは70%の学生に対してさえ)成功できるほど学習を深く理解しているような人はいない。学習というのは繰り返される試みだ。ある教師、ある本、ある映画、あるアプローチ、ある閃き、あるいは何であれ、最終的に乗り越えさせてくれるものに出会うまで続くのだ。私は学生の光を求める探求をくじくようなことだけは決してしたくない。

ここに教育や学習という範囲を超えた1つの教訓がある。契約を取って仕事する人がしばしば忘れてしまう教訓だ。ずっと昔、ロバート・バーンズもネズミを驚かせた。鋤で巣をほっくり返してしまったのだ。彼はそのネズミに私たちがみんな知っている次の言葉をかけた(英語でなくスコットランド語だが、読むことができる)。

But Mousie, thou art no thy lane,
In proving foresight may be vain,
The best laid schemes o' mice and men
Gang aft agley,
And lea'e us nought but grief an' pain,
For promised joy!

だけどねずみさん、お前は1人じゃない
先を見通そうとしても無駄なだけ
ねずみや人の最善の計画も
失敗に終わるばかり
そして悲しみと痛みしか残らない
約束された楽しみの代わりに!

バーンズはコンピュータについては何も知らなかったが、彼はシステム思考者だった。そしてネズミと人は200年しても変わらないことがわかっていた。私の最善の計画も失敗し、約束された楽しみのためにした契約が、悲しみと痛みしか残さないことがある。そのような落ち込む状況から立ち去るとき、私はしばしば残った人たちに少しばかり悲しみと痛みを置いていきたいと思うことがある。しかし ドクターXとミスターYとネズミのいる朝 のことを思い出し、ワインバーグの目標が私の最悪の計画を押しとどめるのだ。

そのような苦しい時に、私は自分がただ1個の人間なのではなく、職業の一部、何千というコンサルタントの1人であることを簡単に忘れる。この職業にはミスターYも属しているが、彼の行為は他の同業者を損なっている。私がひどい仕事をしたとしても、 ドクターXみたいな仕事をしたとしても、クライアントには、まずいことがあればそれは私だけのことであり、1つの状況だけのことなのだと理解して欲しい。同僚達の評判を悪くしたり、将来におけるコンサルティングの仕事を損なうようなことはしたくない。

だからこのワインバーグの目標はコンサルティングにも適用できる:

私が去った後、クライアントは以前よりコンサルタントに相談しなくなってはいないか?

これは私たちが自分の職業に対して負う最低限の責任であると思う。

 

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オリジナル: Weinberg's Consulting Target