表計算ソフト誕生の話

Dan Bricklin / 青木靖 訳
2016年11月 (TEDxBeaconStreet)

Excelのような表計算ソフトを使ったことのある人は、どれくらいいますか? 大勢ですね。では、フィラデルフィアで小さな印刷業を営んでいた私の父のように、会社の簿記を手計算でやっているという人は? ずっと少ない。

それは何百年もの間ずっと行われていた方法です。1978年の初めに、私はやがてVisiCalcとなるもののアイデアに取り組み始めました。翌年それは、新製品だったAppleIIパーソナル・コンピューター用に売り出されました。その後の6年の間に大きな変化があったことは、誰もがVisiCalcを知っておりたぶん使ってもいると、ウォールストリート・ジャーナル紙が社説で想定していたことを見ても分かるでしょう。

スティーブ・ジョブズは1990年のインタビューで言っています。「表計算ソフトがPC業界を牽引した」。「VisiCalcは他の何よりもAppleの成功に貢献した」。彼はより個人的なコメントとしてこうも言っています。「もしVisiCalcが他のコンピューター向けに書かれていたなら、あなたが今インタビューしている相手は違っていたはずだ」

VisiCalcは会社でパソコンが使われるようになるきっかけになったのです。それはどうやって生まれたのか? それは何だったのか? どのようにして私はそれを作ることになったのか? 私がプログラミングを学び始めたのは1966年、15歳の時で、この写真を撮った2ヶ月後のことです。当時はコンピューターに触れられる高校生なんてそういませんでしたが、私は幸運と、ものすごい根気強さのお陰で、地元のコンピューターの利用時間を手にできました。

ウッドストックのぬかるみで寝た後、MITに進学し、バイトでMulticsプロジェクトの仕事をしました。Multicsは対話的タイムシェアリングシステムの草分けでした。LinuxとかUnixというのを聞いたことがあるかもしれませんが、あれはMulticsから生まれたものです。私はMulticsのためのインタプリタ言語に取り組みました。端末の前に座って計算を行う、コンピューターが専門でない人たちが使うものです。

MITを卒業するとDECに就職しました。DECでは、電子化組版という新しい分野のソフトウェアを開発し、新聞社が記者の使うタイプライターをコンピューターに置き換える手助けをしました。ソフトウェアができたら、カンザスシティ・スター紙のような現場に赴いて、ユーザーのトレーニングをし、フィードバックを集めました。この時の実体験はMITの研究室で見てきたのとは随分違っていました。

その後、私はDEC初のワープロソフト開発でプロジェクトリーダーになりました。また新分野です。組版の時と同様、重要だったのはコンピューターに詳しくない人たちが自然に効率良く使えるユーザーインタフェースを作ることでした。DECの後、マイクロプロセッサを使ったファストフード業界向けの電子キャッシュレジスターを作る小さな会社で働きました。でも私は、Multicsプロジェクトで出会った友人のボブ・フランクストンと一緒に会社を始めたいとずっと思っていたので、大学に戻りビジネスについて学べるだけ学ぶことにし、1977年秋にハーバード・ビジネス・スクールのMBAコースに入りました。そこの学生で私のようにプログラミングの経験がある者はごくわずかでした。卒業アルバムには最前列に座っている私の写真があります。

ハーバードではケーススタディを使って学びました。毎回3つくらいの事例を検討します。それぞれの事例は特定のビジネス状況に関する何十ページかの記述からなっています。それにはよく別紙が付いていて、その想定状況に関する資料やデータがありました。それぞれが何かしら違っていました。これは私のやった宿題です。筋が通るように構成された数字や記述が並んでいます。沢山の計算が必要で、私たちはいつも電卓を手元に置いていました。これが私の使っていた電卓です。ハロウィーンの時も電卓を身に付けたものです。

授業のはじめに、先生が誰かに事例の説明をさせます。学生は状況を説明してデータを読み上げ、先生がそれを教室の前にある何枚もの電動式黒板に書き取ります。それからみんなで議論します。すごく苛立たしかったのは、宿題をすっかり済ませ翌日授業に出ると、計算間違いがあって、自分の出した数字が全然駄目だと気付いたときです。そうなると授業であまり発言できなくなりますが、評価は授業への貢献度でなされるのです。

他の87人の学生達とその教室にいて私はよく夢想していました。当時のプログラマーの多くは、メインフレームで在庫システムや給与システムや請求支払いシステムなんかを開発していましたが、私には対話的ワープロソフトやオンデマンドの個人向けソフトの開発経験がありました。そのためプリンタ出力やパンチカードというインタフェースではなく、「魔法の黒板」を夢想していました。数字を消して新しい値を書くと、他の数字が自動的に再計算されるという、数字のためのワープロみたいなものです。私がイメージしていたのは底がマウスのようになっている電卓と、戦闘機みたいなヘッド・アップ・ディスプレーがあって、数字をタイプしまるで囲んで合計ボタンを押すと、交渉しているその場で答えが得られるというものです。その夢をどうにか現実にしたいと思いました。

父は私にプロトタイピングというのを教えてくれました。冊子を印刷するときページ上の配置を決めるために使う実寸大のひな形を見せてもらったことがあります。顧客からフィードバックを得るのにそれを使い、OKが出たら印刷にかけるんです。作ろうとしているものを単純化した実際に動くものを作ることで、主要な問題点が浮かび上がり、そのような問題への解決策をずっと少ない費用で見つけられます。

それでプロトタイプを作ってみることにしました。ハーバード大のタイムシェアリングシステムに接続された端末に行って取り組み始めました。私がまず直面した問題の1つは、式の中の変数をどう表現するかということでした。 どういうことか説明しましょう。考えていたのはこうです。 どこか指定して言葉を書き、別のところに数字を入れ、さらに別の数字を入れます。答えを出す場所を指定してから、最初の数字を指し、マイナスを押し、2番目の数字を指すと、結果が現れます。問題は式をどう表すかということです。何が入るのかコンピューターに分かるものにする必要があります。そして画面のどこが参照されているのか式を見れば分かるようにする必要があります。はじめの案はプログラマー的なやり方で、最初にどこかを指定したとき、識別名をユーザーに付けさせるというものです。これは面倒くさすぎるということがすぐに分かりました。コンピューターが自動的に名前を付けて保持しておくようにする必要があります。では作られた順番で名前を付けたらと考えました。変数1、変数2、という具合に。しかし変数が何個もあると、どこにどれがあるのか覚えられなくなってしまいます。

それなら変数をどこにでも置けるようにする代わりに、碁盤目上に制限したらどうかと考えました。マス目を指定したとき、その行と列を名前にすることができます。地図みたいに上にABC、横に123と書いておけば、式の中にB7とあったとき、画面上のどこを指すのか一目瞭然です。式を自分で書く場合も、どうすればいいかすぐわかります。 ユーザーを碁盤目上に制限することで私の問題は解決しました。同時に一続きのマス目を指定できるといった新しい可能性も開けました。それでいてこの制限はきついものではなく、ユーザーは好きな値や式をどのマス目にでも入れることができます。そしてこれは40年後の今もそのまま使われている方法です。

友人のボブと私はこの製品を一緒に作ることにしました。そのプログラムがどう振る舞うべきか見極めるため、私はさらに取り組みました。ドキュメントとなるものとして説明シートを書きましたが、それはまた作っているユーザーインタフェースが普通の人に対し簡潔明瞭に説明できるものにする上でも役立ちました。ボブはマサチューセッツ州アーリントンに借りたアパートの屋根裏で作業していました。これがその屋根裏部屋です。 ボブがMITのMulticsシステムの利用時間を購入して、このような端末を使ってプログラムを書きました。それから電話回線と音響カプラを使い、借用したApple II にテスト版をダウンロードしてテストを行います。

テストの一環として「ペプシチャレンジ」の宿題を使いました。印刷機能はまだできてなかったので、全部手で書き写す必要がありました。保存機能はまだできてなかったので、プログラムがクラッシュするたびに式をすべて入力し直さなければなりませんでした。翌る日、授業で私は手を挙げて、指されると事例の解説をしました。5年の予測をし、あらゆる種類のシナリオを考察しました。この事例でAの評価をもらいました。VisiCalcはすでに役立っていたのです。先生に「いったいどうやったの?」と聞かれましたが、我々の極秘プログラムのことを明かしたくはなかったので、「これにこれを加えてこれを掛けてこれを引きました」と言うと、「比を使わなかったのはどうして?」と聞くので、「比なんか正確じゃありませんよ!」と答えましたが、実際は割り算がまだできるようになってなかったんです。(笑)

そうこうするうちにVisiCalcはお披露目できるまで出来上がりました。マーケティングに使える説明シートのサンプルを父が刷ってくれました。

1979年6月に発売元がVisiCalcの告知をしました。ニューヨークで行われた巨大なナショナル・コンピューター・カンファレンスの小さなブースでのことです。ニューヨークタイムズ紙がこのカンファレンスについてユーモラスな記事を書いています。「機械が宗教儀式に見えることを行う。信者たちが集まる中、コロシアムの画家たちが殿堂に付け加える。黄色地に黒で大きく書かれた『VISICALC』の文字を。VISICALCを賛美せよ!」 (おおっ) ニューヨークタイムズ曰く「VISICALCを賛美せよ」(笑)

その後2年くらいは、大手のビジネス誌が電子表計算ソフトに言及することはありませんでした。ほとんどの人はまだ理解していなかったのです。理解した人もいましたが。

1979年10月にVisiCalcが発売されました。こんなパッケージに入っていて、Apple II の上でこんな感じに動作しました。その後のことは皆の知る通りです。

まだまだ話し足りないことがありますが、それはまたの機会にしましょう。ただ1つだけ、ハーバードが記憶してくれていることについて。これが例の教室です。そこで起きたことを記念するプレートが飾られています。(拍手)

同時にこれが伝えているのは、皆さんもまた、自分独自の事情や能力や要求を生かし、プロトタイプを作って重要な問題を見つけて取り組み、それを通して世界を変えるようにということです。ありがとうございました。(拍手)

 

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オリジナル:  Dan Bricklin: Meet the inventor of the electronic spreadsheet