インターネットが (いつの日か) 政治を変える (TED Talks)

Clay Shirky / 青木靖 訳
2012年7月

今日はオープンソースプログラミングの世界に民主主義が学べることについてお話ししますが、その前にちょっと見て頂きたいものがあります。この子はマーサ・ペイン、9歳で、スコットランドのアーガイル・アンド・ビュートに住んでいます。 数ヶ月前にペインは『ネバー・セコンズ』という食べ物ブログを始め、毎日の給食を写真に撮って記録しました。野菜がどこにあるか分かりますか?(笑) よくあるように、最初読者は数十人ほどでしたが、それから数百人、数千人と増え続け、彼女が給食につける点数を見ようと、みんな立ち寄るようになりました。私が好きな部分は「食品中の毛髪数」というやつです。(笑) この日はゼロです。良かったですね。それから2週間前にこんな投稿をしました。「さようなら」というタイトルです。「こう言わなければならないのはとても残念ですが、今日授業中に校長先生に呼び出され、もう給食中に写真を撮ってはいけないと言われました。これまでとても楽しかったです。読んでくれてありがとう。さようなら」。その後何が起きたか分かりますよね?(笑) 寄せられた怒りの声は、怒濤のようで、夥しく、徹底していました。学校側はその日のうちに決定を翻し、「9歳の子の検閲なんてまさかしませんよ」と言いました。(笑) その日の朝は例外だったわけですね。(笑) そこで持ち上がる疑問は、彼らはどうしてそんなことがまかり通ると思ったのか?(笑) その答えはこれまでの人類の全歴史の中にあります。(笑)

メディアが突然現れてたくさんの新しい考えを流し始めたとき、何が起きるのでしょう? これは現代の問題というわけではなく、過去何世紀にも渡って人類がたびたび経験してきたことです。電信が現れたとき、ニュース産業がそれで国際化されることは明らかでした。それがもたらすのは何でしょう? 当然、世界平和です。テレビは世界各地で起きていることを聞くだけでなく見ることもできるメディアです。それがもたらすのは何でしょう? 世界平和です。(笑) 電話はどうか? お分かりですね? 世界平和です。ネタばれになって恐縮ですが、世界平和にはなりません。少なくともまだ。活版印刷でさえ、カトリック知識人の支配をヨーロッパに広めるツールとして捉えられていたのです。しかし実際に起きたのは、マルティン・ルターの95ヶ条に、宗教改革、そして三十年戦争です。この世界平和の予言で合っていたのは、新しい考えが突如流れるようになると社会は変わる、ということです。間違っていたのは、それで具体的に何が起きるかということです。より多くの情報が流れるというのは、誰かの反対する考えが増えるということです。メディアの増加は常に議論の増加に繋がります。それがメディア空間の拡大で起きることです。それでも活版印刷の出現を振り返るとき、そこで起きたのは良いことだと私たちは考えています。私たちは出版を支持する社会なのです。

ではどうやってこの2つが折り合うのでしょう。より多くの議論を引き起こしながら、それを良いものと考えるというのは? 答えはこのようなものに見出せます。これは『フィロソフィカル・トランザクションズ』の表紙です。英語で出版された最初の科学論文誌です。1600年代のことでした。作ったのは「見えざる大学」と称する自然哲学者の集団で、彼らは後に「科学者」と名乗るようになりました。彼らは自然哲学者同士の議論のあり方を改善するために、2つのことを必要としました。1つはオープンさです。実験をしたら結果だけでなく実験方法も公開しなければならない、という規範が必要でした。どうやったか教えてくれなきゃ信じるわけにいかないのです。もう1つはスピードです。他の自然哲学者たちが知っていることを素早く同期させる必要がありました。そうでないと議論をうまく進めることができません。活版印刷はそのための適切なメディアでしたが、本は時間がかかりすぎ適切なツールではありません。それで自然科学者コミュニティで議論を同期させる方法として科学論文誌が生み出されたのです。科学革命は活版印刷によって生じたのではなく、科学者たちによってもたらされたのですが、活版印刷というツールがなければそれはなしえませんでした。

私たちはどうでしょう? 私たちの世代のメディア革命というと、インターネットですよね? 世界平和の予言は? もちろんあります。(笑) より多くの議論が起きたでしょうか? 記録的なくらいに (YouTubeコメント欄での罵り合いのスライド)。YouTubeは議論の宝庫ですね。より良い議論でしょうか? それは疑問です。私はソーシャルメディアを研究していますが、これは一次近似としては、人々の議論を観察するということです。我々にとっての「見えざる大学」は何でしょう? より多くのではなく、より良い議論をツールを使って実現しようとしている我々の世代における集団を選ぶとしたら、私はオープンソースプログラマを選びます。プログラミングというのは、プログラマ、ソースコード、それを動かすコンピュータという3者間の関係ですが、コンピュータというのは命令の解釈について融通が利かず、どう実行するかコンピュータにわかるように一連の命令を書くというのは、ものすごく難しいのです。1人で書く場合でもそうですが、書く人間が複数になると、同じファイルをいじる2人が互いに上書きしたり、矛盾した命令を送ってコンピュータを立ち往生させることになりやすく、関わるプログラマの数が増えるほど問題が大きくなります。大規模ソフトウェアプロジェクトの管理というのは、一次近似として、この社会的カオス状態をいかに食い止めるか、という問題なのです。

長い間この問題に対する正統的解決法は「バージョン管理システム」を使うということでした。このシステムはその名の通りのことをします。ソフトウェアのマスタコピーをどこかのサーバに保持していて、それを変更できるのはアクセスする特別な権限を与えられた人だけ、しかも自分に変更権限のある部分しか変えることを許されません。バージョン管理システムを図示させると、みんなこんな絵を描きます。組織図みたいですね。このようなシステムの政治的帰結を読み取るのは難しくないでしょう。封建制です。1人の所有者に多数の労働者。これは商用ソフトウェアには適しています。Microsoft OfficeとかAdobe Photoshopとか。企業がソフトウェアを所有し、プログラマは働きにやって来ます。

しかし、あるプログラマが、これは自分たちのやり方ではないと思いました。リーナス・トーバルズです。彼は最も有名なオープンソースプログラマで、Linuxの作者として知られています。彼はオープンソース運動がこの問題に対処してきた方法について考えていました。オープンソースソフトウェアのライセンスが約束しているのは、すべての人がいつでもすべてのソースコードにアクセスできるということです。もちろんそのままだとカオス状態に陥る怖れがあるので、何かを成し遂げようと思ったら、それを未然に防ぐ必要があります。だからオープンソースプロジェクトの多くは我慢して封建的管理システムを使っています。しかしトーバルズは「そんな風にはやりたくない」と思いました。この点について彼の考え方は明確です。何かのツールを採用するときには、そのツールに埋め込まれている思想も採用することになります。彼はLinuxコミュニティのやり方に合わないものを採用したくなかったのです。

このような決断がいかに大きなものか理解するため、これを見て頂きましょう。Linuxオペレーティングシステムの内部的依存関係のグラフです。プログラムのそれぞれの部分が別のどの部分に依存しているかを表しています。とんでもなく複雑なプロセスになっています。これほど複雑なプログラムでありながら、長年の間トーバルズは自動化ツールなしで、メールの受信箱を使って管理していました。人々が文字通りメールで変更部分を送ってきて、彼がそれを手で組み込んでいたのです。そして15年にわたってLinuxを見続け、コミュニティの働き方を把握し、思い至ったのです。「自由な人々のためのバージョン管理システムをどう作ればいいのか分かった」。彼はそれをGitと名付けました。Gitは分散バージョン管理システムです。従来のバージョン管理システムと大きく異なる点が2つあります。1つはオープンソースの思想に合っているということです。そのプロジェクトで働いているすべての人がすべてのソースコードにいつでも触ることができます。Gitのワークフローを図に描くとこんな感じになります。ここで丸や四角や矢印が何を意味するのか分からなかったとしても、これが従来のバージョン管理で想定されているよりもはるかに複雑な動きをすることは見て取れるでしょう。しかしこれは再びカオスを手にするということでもあります。それがGitのもう1つのイノベーションです。

これはGitホスティングサービスであるGitHubのスクリーンショットです。プログラマがGitを使って、ファイル作成や、既存ファイルの修正、2つのファイルの統合といった変更を行うとき、Gitは一種の署名を生成します。この長い英数字の列は、個々の変更に割り当てられた固有の識別子で、これは中央での調整なしに行われます。Gitシステムはすべて同じやり方でこの数字を生成し、それは特定の変更に直接結びついた誤魔化しようのない署名となります。これがもたらす効果は、エジンバラのプログラマとエンテベのプログラマが同時にソフトウェアの同じ部分を取り出して、それぞれが変更をし、後からそれを統合できるということで、2人があらかじめ互いの存在を知らなくともいいのです。これは調整なしの協同であり、とても大きな変化です。

この話をしているのはオープンソースプログラマがその仕事の仕方に合ったツールを手に入れたのは素晴らしいと言いたいからではありません。実際素晴らしいことだと思いますが。この話をしているのは、コミュニティで協力する方法に対してこれが持つ意味のためです。Gitによって調整なしの協同が可能になると、ものすごく大きく複雑なコミュニティが形成されるようになります。これはオープンソースのプログラミング言語Rubyのコミュニティのグラフです。人の関連を表しています。ソフトウェアのグラフではなく、人のグラフです。このプロジェクトで働いている人の間の関係です。これは組織図のようには見えません。むしろ非・組織図です。それでもこのコミュニティは、こういったツールを使うことで一緒に何かを作り上げられるのです。

このようなテクニックが民主主義一般、特に法律に対して適用できると考えられる理由が2つあります。インターネット上の何かが民主主義に良いと主張したとき、よくある反応はこういうものです。「ああ、あんたが話しているのって、あの歌う猫のこと? あれが社会のためにいいって言うの?」それに対する私の答えは、歌う猫の問題はいつでも起きるということです。インターネットでいつでも起きるということではありません。メディアにおいていつでも起きるということです。商業的な印刷が出現してから、官能小説を出版するのはいいアイデアだと誰かが気付くまでに、さほど時間はかかりませんでした。本を売る経済的インセンティブが発生してほどなく、「大衆がいったい何に金を出すと思う?」と考える人間が現れたのです。科学論文誌が考え出されたのは、その150年も後のことです。だから「見えない大学」が活版印刷を使って科学論文誌を作ったのは極めて重要な出来事でしたが、それは大規模でも短時間でも迅速でもありませんでした。変化が起きている場所を見つけるには、周縁に目を向ける必要があります。

法律もまた依存関係を持っています。これはアメリカの税法のグラフで、法律が全体として機能する上で持つ個々の法律の依存関係を表しています。ソースコード同様の関連があるのです。そしてまた、法律も多くの意見がある中で唯一の正式なバージョンに収斂させる必要があります。GitHubに行って見て回っていると、何百万というプロジェクトがあって、そのほとんどはソースコードですが、周縁に目を向けると、このような政治的派生物で実験している人たちがいます。

ウィキリークスが公開したすべての米国務省公電を、処理用のソフトウェアと一緒に登録した人がいます。これは流出公電の活用事例として私が特に気に入っているものですが、米国務省の文書中に自然に現れる俳句を抽出するツールです。(笑) ご覧の通り。

ニューヨーク州議会では「オープン立法」と呼ばれるものをGitHubに作っていて、これもまた更新や流動性に対応するためです。議員を選んで、その人が起草した法案を見ることができます。

divegeekというユーザは、GitHubにutahcodeというユタ州の州法を登録する場所を作りました。単に州法を見られるだけでなく、法律を作っていく過程にこれを活用するという、とても興味深い可能性がここにはあります。

去年議会で著作権の議論が行われていたとき、ある人がこのページを作りました。「カナダ国民よりもハリウッドの方がカナダの議員に意見できるのは変な話だ。市民が作ったら法案がどんなものになるかGitHubで見せてやろうじゃないか」。これはその示唆に富むスクリーンショットです。画面右側はdiff(差分)と呼ばれるもので、たくさんの人が手を入れた文章について、いつ誰がどんな変更を加えたか分かるようになっています。赤は削除された部分、緑は追加された部分です。プログラマにとっては当たり前のツールですが、世界の民主主義のどこも、この機能を市民に提供してはいません。法案についてであれ予算についてであれ。それが我々の同意のもと、我々のお金で行われるものであるにも関わらずです。

オープンソースプログラマは大規模分散的で安価な協同作業の方法を生み出していて、それは民主主義の理想にぴったり合っています。ツールは既にあり、イノベーションは不可避だと言いたいところですが、そうなってはいません。その理由のある部分は単なる情報の欠如です。Quoraで質問した人がいます。「どうして立法で分散バージョン管理を使わないのでしょう?」これはその答えを図で示したものです。

これは確かに原因の一部ではありますが、全部ではありません。より大きな問題はもちろん権力です。参加の実験をしている人たちは立法の力を持たず、立法の力を持つ人たちは参加の実験などしません。彼らはオープン化の実験はしています。透明化の努力をしないものは民主主義の名に値しません。しかし透明化というのは一方向のオープン化でしかありません。民主主義が市民に手綱なしのダッシュボードを与える約束をしたことは、いまだかつてありません。

考えてほしいのは、マーサ・ペインが自分の意見を人々に伝えられるようにしたのはテクノロジーでしたが、それを公開し続けられるようにしたのは政治的意志だったということです。マーサが検閲されないことを市民が望んだのです。コラボレーションのツールを手にしたというのが今の我々の状態です。我々はそれを持ち、目にしています。それは機能します。我々は使えるでしょうか? マーサの時にうまくいったやり方を、ここでもやれるでしょうか?

T・S・エリオットは言いました。「文化で起こりうる最も重要なことは、新しい散文の形式を手にすることである」。これは間違っていると思いますが・・・(笑)・・・「議論」ということであれば正しいと思います。文化で起こりうる最も重要なことは、新しい議論のスタイルを手にすることです。陪審員による裁判、選挙、ピアレビュー、そして分散管理システムです。議論の新しい形式が我々の生きている間に、実際この十年の間に発明されたのです。大規模で分散的で低コストで民主主義の理想に合致しています。我々が今問われているのは、それをプログラマだけのものにしておくのか、それとも社会全体に役立てるため、これを取り入れるのか、ということです。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

 

[これはTED公式日本語訳です。翻訳をレビューしていただいたYuki Okada氏に感謝します。]

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オリジナル:  Clay Shirky: How the Internet will (one day) transform government